史実から見たキングダム全史1 6大将軍より前の話

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キングダム全史
キングダムアニメより引用

キングダムが大好きすぎて史実の戦国時代も勉強してしまいました。

 

そこで史実とキングダムの世界を並行して振り返りつつ、今後の展開を予想していこうと思います。

 

性質上ネタバレが多く含まれますので、未読の方や今後の展開を知りたくない方は読まないことをオススメします。

 

まずは作中で6大将軍が活躍していた時代のさらに前の時代から見ていきます。

 

BC771年 周王に敵対する側が犬戎を誘って首都鎬京を攻撃し、犬戎は幽王を殺害、その王妃褒姒とともに王室の財宝を奪って引き上げた。

これ以降から春秋時代に入る。周が追われた地に秦が封ぜられた。その後も何度か秦と衝突し、最後には秦に吸収され、一部は匈奴に吸収された。

キングダム3巻で壁が語っていた伝承はこの事例のことです。

 

BC647年 晋は不作になり、食糧が不足したために秦へ援助を要請した。家臣たちは領土割譲の約束を破った恵公に何で食糧を送ってやる必要があるかと反対したが、穆公は「恵公の事は憎んでいるが、民に罪は無い」と言い、晋に大量の食糧を送った。

 

BC646年 今度は秦が不作となった。穆公は晋へ援助を要請した。しかし恵公は食糧を送らず、逆に好機ととらえて秦に攻め込んできた。これにさすがの穆公も激怒し、翌年に出兵して晋軍と韓原で激突し、大勝して恵公を捕虜とした。

2巻に出てくる馬酒兵のエピソードはこの史実がモデルとなっている。馬酒兵に助けられたという部分はキングダムオリジナルだがそれ以外の大筋はほぼ史実通りです。

 

BC356年 秦の商鞅が第一次変法と呼ばれる改革を行う。これにより田畑は見事に開墾され、兵士は精強になり、人民の暮らしは豊かになり、道に物が落ちててもこれを自分の物にしようとする者はいなくなったという。

秦は内陸奥地の起源を持ち、中国中央とはやや異なった風習でもあり、野蛮国と見なされてきた。しかし商鞅の改革により強国として一目置かれることとなった。

商鞅はキングダム39巻で秦史における二大丞相だと昌平君の口から語られています。

 

BC350年 秦が雍から咸陽へ遷都。雍はキングダムでも政の加冠の儀が行われた場所として登場しました。

 

BC326年 趙に武霊王が即位する。遊牧民族の戦法であった騎馬を取り入れ、趙の騎兵隊は各国に恐れられるようになった。

キングダム3巻で信と漂が語り合っていたエピソードです。

キングダムの世界でも趙の騎馬隊については強く描かれています。

 

BC318年 函谷関の戦い(第一次)。実はキングダム世界の合従軍の前にも秦が函谷関で合従軍を迎え撃った戦いがある。

魏の公孫衍が魏・趙・韓・燕・楚の合従軍を率いて秦に侵攻した。合従軍の総大将は楚の懐王が努めた。しかし、合従軍の5国はそれぞれの利害のため足並みが揃わず、実際に出兵したのは魏・趙・韓の3国のみであった。合従軍は函谷関を攻撃したが、秦軍によって撃破された。

キングダム世界ではこの合従軍は無かったものとして描かれています。

 

BC316年 司馬錯が蜀を攻め滅ぼした。これにより、秦は、国土が広がり、また楚に対しては背後をとる形になって優位に立った。

キングダムで6大将軍の1人に数えられている司馬錯ですが、6大将軍の中で一人だけ一世代前に活躍していた人物です。6大将軍という括りはキングダムのオリジナルです。

 

BC312年 燕の昭王が斉に対抗するために、臣下の郭隗の献策を元に有能な人材を諸国に求めたとき、それに応じて魏の将軍・楽毅や趙の将軍・劇辛、斉の陰陽家・鄒衍らが燕に移った。

昭王は、一時とはいえ燕を亡国に追い込んだ斉を深く憎み、いつか復讐したいと願っていた。しかし当時の斉は西の秦と並んで東の最強国であり、辺境の小国である燕の国力では到底不可能であった。

昭王は人材を集めることを願い、どうしたら人材が来てくれるかを郭隗に尋ねた。郭隗は「死んだ馬の骨を買う」の故事を喩えとして話し「まず私を優遇してください。さすれば郭隗程度でもあのようにしてくれるのだから、もっと優れた人物はもっと優遇してくれるに違いないと思って人材が集まってきます」と答えた。

宰相に先王がたぶらかされたことによる苦労の経験があったにも関わらず、昭王はこれを容れて郭隗を師と仰ぎ、特別に宮殿を造って郭隗に与えた。これは後世に「まず隗より始めよ」として有名な逸話になった。

キングダム24巻で描かれたエピソードです。

 

BC311年 司馬錯が楚を討ち、商・於を取った。

 

BC310年 蜀の国相陳壮が謀反を起こして蜀侯通を殺したので、司馬錯、甘茂、張儀がこれを鎮圧した。

 

BC307年 趙の武霊王が胡服騎射を取り入れる。胡服とは当時北方の遊牧民族が着ていた、短い衣に長いズボン、革靴を履き、あるいは足巻を、衣の袖を小さくして活動しやすいようにした服装である。

当時の中国ではゆったりした裾の長い服を着ており、戦時には戦車に乗って戦う戦士となったが、馬に乗るためにはこの服は甚だ不便であった。

武霊王は北方の騎馬兵の強さに目をつけ自国にもこれを取り入れたいと考えた。その為には文明を象徴する戦車に乗る戦士であることを誇りとする部下達に、胡服を着させ、馬に直接またがる訓練を施す事が必要である。

趙の国人達は強くこれに反発するが武霊王は強権的に実行させ、趙の騎馬兵は大きな威力を発揮し趙の勢力は拡大した。

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