史実から見たキングダム全史。
第4回はキングダム1巻から16巻で王騎が死ぬまでのBC245年とBC244年を見ていきます。
BC245年 キングダム1巻はこの年に始まる。1~10巻の物語はこの年。
史実にある成蟜の反乱はこの年ではなくBC239年。1巻~4巻までの王宮奪還編は史実にはない。
ただ5巻で「反乱そのものを無かったことにしろ」と政に言わせていたことから、実際にあった反乱を無かったことにしたというストーリーが成り立つ。
昌文君は実在する人物である。史実では昌平君と叔父・甥の関係である。
竭氏、肆氏は実在する人物であるが史実ではBC238年の嫪毐の乱で処刑されている。
3巻で楊端和が登場するが楊端和も実在する人物である。山の王や女性だったというのはキングダムオリジナルだが。
楊端和が実際に史実に登場するのはBC238年の衍氏の戦いになるのでもっと後になる。
ちなみに主人公の信(李信)が初めて史実に登場するのはBC229年、作中で言うと鄴編よりさらに後になる。
『新唐書』宗室世系表によると李信の祖先には、李耳(老子)の名がみられる。下僕の出というのはキングダムの創作である。
李信の祖父の李崇は、字を伯祐といい、秦の隴西郡守・南鄭公となった。李信の父の李瑤は、字を内徳といい、秦の南郡郡守・狄道侯となった。
李信は字を有成といい、秦の大将軍・隴西侯となった。李信の子の李超は、またの名を伉ともいい、字を仁高といい、漢の大将軍・漁陽太守となった。李超にはふたりの男子があって、長男が李元曠といい、漢の侍中となった。
李超の次男は李仲翔といい、漢の河東太守・征西将軍となり、反乱を起こした羌を素昌で討伐して戦没した。
李仲翔は太尉の位を追贈され、隴西郡狄道県東川に葬られたことから、李氏はここに家をかまえた。李仲翔の子の李伯考は漢の隴西河東二郡太守となった。
李伯考の子の李尚が、漢の成紀県令となり、このため成紀県に居住した。李尚の子が、漢の前将軍の李広であるとされる。
李広以下の子孫の記録は、五胡十六国時代の西涼の李暠へと続き、唐の高祖李淵にいたる。また宗室世系表以外では李白も前述の李暠の9世の後裔と記されている。
また『史記』白起・王翦列伝において、李信は「年が若く、勇壮であった」と記されている。 また、対楚戦の失敗後も粛清されず、子孫が繁栄したことからも、秦王政より一応の信用は得ていたと考えられる。
対楚戦で大敗するまで無名と言ってもいい将軍だったが、大敗しても政の信を得ていたということから主人公として物語を作りやすかったのだろう。
BC245年 麃公が魏の巻を攻め、首を斬ること3万であった。
キングダム5巻の蛇甘平原はこの戦いを意識して描かれたと思われる。
魏の大将・呉慶はキングダムオリジナルキャラクターだが信陵君の食客頭として登場。
信陵君は実在する人物で、BC237年には五カ国連合軍を率いて秦を攻め、王齕と蒙驁を破っている。
この戦いでは羌瘣も初登場。実在する人物であるが史実に登場するのはBC229年とかなり後になる。もちろん暗殺一族だとか女剣士だという設定はキングダムオリジナルである。
暗殺一族として出てくる蚩尤というのは中国神話に登場する神の名前である。獣身で銅の頭に鉄の額を持つという。
姓は姜で炎帝神農氏の子孫であるとされる。羌瘣とは姓の繋がりを意識しての設定だろう。
BC245年 キングダム8巻~9巻の政暗殺編はキングダムのオリジナルエピソードで史実にはない。
史実として実際にあった秦王暗殺はBC227年と大分後になる。燕の刺客による暗殺未遂である。
ストーリー序盤に秦王暗殺エピソードを描いたキングダムはBC227年の暗殺をどのように描くのだろうか。
10巻では呂氏が初登場。呂氏四柱と呼ばれた昌平君、蒙武、李斯、蔡沢はいずれも実在する人物であるが呂氏四柱という立場はキングダムの創作である。
BC244年 蒙驁が韓を攻めて13城を取る。王騎が死亡。
キングダム11巻から始まる韓侵攻は史実通り。
その隙に趙が侵攻してきた16巻までの馬陽の戦いはキングダムのオリジナルエピソード。史実で王騎の死亡がこの年に確定しているので王騎の死に場所を設ける戦いを描きたかったのだろう。ちなみに王騎の実際の死因は不明。
侵攻側である趙の李牧、龐煖は実在する人物であるが史実で活躍するのはもっと後である。
龐煖は武神という作品中のイメージとは異なり、将軍でありながら道家(思弁的哲学者)・縦横家(弁論家)・兵家(軍事思想家)としても有名な人物であり、キングダム世界とイメージが異なる。
ただ若い頃は、楚の深い山奥で、道家の隠者である鶡冠子のもと学問を学んだというエピソードがあり、人里離れた山奥で研鑽を磨いたという原作のキャラクターにも活かされている。
趙側の将である趙荘、万極、馮忌、渉孟、李白はキングダムのオリジナルキャラクターだが、公孫龍は実在する人物である。
しかし史実の公孫龍は哲学者・思想家であり燕の王である昭王に非戦を説いたり、趙の恵文王に非戦ではなく兼愛を説くなど反戦派の人物である。
李牧は史実では代郡・雁門郡に駐屯する国境軍の長官で、国境防衛のために独自の地方軍政を許され、匈奴に対して備える任についていた。
匈奴の執拗な攻撃に対しては徹底的な防衛・籠城の戦法を採ることで、大きな損害を受けずに安定的に国境を守備していた。
兵達には「匈奴が略奪に入ったら、すぐに籠城して安全を確保すること。あえて討って出た者は斬首に処す」と厳命していたからである。「廉頗藺相如列伝」において、司馬遷は李牧を「守戦の名将」と位置づけている。
だが、そのやり方は匈奴だけでなく、趙兵にさえも臆病者であると思われてしまうこととなる。趙王は李牧のやり方を不満に思い責めたが、李牧はこれを改めなかったので、任を解かれた。
李牧の後任者は勇敢にも匈奴の侵攻に対して討って出たが、かえって被害が増大し、国境は侵された。そのため、趙王は過ちに気付き、李牧に任を請うたが、李牧は門を閉じて外に出ず、病と称して固辞した。
それでも将軍に起用されたので、李牧は「王がどうしても私を将軍にしたければ、前の方針を変えないようにさせて下さい」と言い、これを許された。そして李牧は元通り、国境防衛の任に復帰することになった。
ある日、匈奴の小隊が偵察に来た時、李牧は数千人を置き去りにして偽装の敗退を行い、わざと家畜を略奪させた。
これに味をしめた匈奴の単于が大軍の指揮を執ってやってきたが、李牧は伏兵を置き、左右の遊撃部隊で巧みに挟撃して匈奴軍を討った。
結果、匈奴は十余万の騎兵を失うという大敗北に終わった。その後、さらに代の北にいた東胡を破り、林胡を降したため、単于は敗走し、匈奴はその後十余年は趙の北方を越境して来なくなった。
キングダム15巻の李牧が策で匈奴10万を破ったというエピソードはこの史実を元に描かれていると思われる。
李牧が北方の任を解かれて中央の大将軍となり、秦と戦うのは鄴攻略戦のさらに後、BC233年のことである。
つまり2020年現在でキングダムで描かれている李牧の対秦戦は全てキングダムの創作ということになる。
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