史実から見たキングダム全史7 鄴攻略編から趙を滅ぼすまで

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キングダム全史
キングダムアニメより引用

史実から見たキングダム全史。

 

第7回は鄴攻略編から趙を滅ぼすまでを見ていきます。2020年現在のキングダムは鄴攻略編まで終わっており、それ以降は完全にストーリーのネタバレとなります。

 

BC236年 龐煖が燕を攻めて貍と陽城を取る。幽繆王の代では用いられなかったらしく、以降、龐煖の活動の記録はない。

史実では趙が燕を攻めていますが、キングダムでは燕が趙に攻めてきたことになっています。

キングダムでは司馬尚が燕軍を撃退していますが、司馬尚が実際の史実に登場するのはBC229年の邯鄲攻略戦になります。

 

BC236年 龐煖が燕を攻めた隙に、秦は鄴を落とすため王翦を総大将、桓齮と楊端和を副将として遠征軍を派遣。9城を取る。龐煖が燕に侵攻し、国内が手薄になっている隙を狙っての侵攻であった。

王翦は一人で閼与などを攻める。それから、皆兵をあわせて一軍とした。王翦が将軍になると18日間で軍中の斗食以下の功労のない者を帰らせ、軍をおよそ5分の1に減らし精鋭揃いに編成した。そして、それまで落とせなかった鄴などを落とした。

 

キングダム46巻から始まる鄴攻略編です。

龐煖は実際は燕を攻めていたので鄴攻略戦には参戦していません。しかしこれ以降の史実に登場しないのでここで退場させたのでしょう。

逆に李牧は史実ではまだ北方の長官として対匈奴にあたっていたので鄴攻略戦には参戦していなかったはずです。

趙側の将軍として出てきた堯雲、趙峩龍、馬南慈、舜水樹らもキングダムのオリジナルキャラクターなので鄴攻略編の大部分はキングダムの創作です。

兵糧の問題で軍のおよそ10分の2の精鋭部隊で鄴を落としたというエピソードが史実にあったことから兵糧攻めの掛け合いという描き方をしたのでしょう。

これは朱海平原で勝利した後に李牧軍を追ったキングダム58巻で反映されています。

また、鄴の周辺の9城を落とすというところも作中に反映されています。

 

BC236年 趙の悼襄王が崩御し、子の幽繆王が即位する。

 

BC235年 政は呂不韋へ書状を送った。蜀への流刑を命じるものであった。流刑の地・蜀へ行ってもやがては死を賜ると悟った呂不韋は、服毒自殺した。

キングダム60巻で描かれました。本当に死んだのか、もしくは生きてるのかは読者の解釈に委ねるような描かれ方でしたね。どちらにせよ原作からも呂不韋はこのタイミングで去りました。

 

BC235年 秦が4郡の兵を発して魏を助け、楚を攻撃した。秦魏の連合軍が楚に攻め入ろうとする直前、李園は秦の辛梧という人物を説得し、秦魏連合軍の楚侵攻を回避した。

キングダム60巻から描かれる、秦と魏が同盟を結んで什虎城を攻めたエピソードです。什虎城という城は実在する城ではなく、ほとんどがキングダムオリジナルエピソード。もちろん什虎城の武将達もオリジナルキャラクターです。

 

BC235年(キングダム) 羌礼が飛信隊に加入。

 

BC234年(キングダム) 秦で六大将軍が復活。

 

BC234年 平陽の戦い。桓齮は平陽を攻め、趙は扈輒を将として平陽を救援に向かわせ、秦軍と戦った。秦軍は十万の趙兵を平陽の城外で斬首し、趙の将である扈輒を討ち取った。

桓齮登場時に「首切り桓齮」という異名で呼ばれたのはこの時のエピソードから取られていると思われます。

キングダム62巻から描かれる戦いです。

 

BC234年 秦軍が邯鄲に迫り趙の幽繆王は北部の国境の防衛を担っていた李牧に対して趙の全軍を率いる大将軍になることを命じた。

 

BC233年 桓齮は再び出兵し宜安・平陽・武城の3城を取り、再び趙軍を破る。

 

BC233年 肥下の戦い。李牧率いる趙軍と秦軍は宜安付近で対峙した。激しい戦いの末に、秦軍は大敗した。

桓齮の率いる秦軍のうち少数は包囲から脱し、秦国へ退却した。桓齮は敗走し、一説では李牧に討たれたとされる。趙は秦に占領されていた土地を取り戻し、李牧は武安君に封じられた。

史実はここで桓齮が退場します。キングダムではどのように描かれるのでしょうか。

 

BC232年 番吾の戦い。秦は兵を大挙し、趙に侵攻した。軍は鄴城に到着し、その後太原に到着した。

秦軍は狼孟と番吾を占領したが、李牧が秦軍を撃破した。さらに李牧は秦から韓・魏の国境まで領土を奪還した。

 

BC231年 秦が韓より南陽の地を譲られると、南陽郡が置かれ韓の降将・騰は仮の郡守となる。

 

BC230年 内史騰を大将として10万の軍で韓を攻めた。韓は陽翟が陥落して韓王安は捕虜となった。韓は滅亡し、韓の国土は秦の潁川郡となった。

ここでまず戦国七雄のうち韓が最初に滅びることになります。滅ぼしたのは騰なのでキングダムでも騰の活躍が描かれることになるでしょう。

 

BC229年 騰が楚国を攻略する準備のため南郡の郡守に、任命され駐留する。

 

BC229年 王翦・楊端和・羌瘣が趙の干ばつや地震災害につけこみ、大軍を以て趙を攻め、王翦が井陘の地を取る。そのため、趙は李牧と司馬尚に応戦させた。

苦戦した秦は李牧を排除するため、幽繆王の奸臣郭開に賄賂を送り、趙王と李牧との離間を画策した。郭開は趙王に「李牧と司馬尚が謀反を企てている」と讒言した。

趙の軍事を掌握し功名の高い李牧を内心恐れていた幽繆王はこれを疑い、郭開の言を聞き入れ、李牧を更迭しようとした。

だが、李牧は王命を拒んだため、幽繆王によって密かに捕らえられて誅殺され、司馬尚も解任・更迭された。

李牧の死後、趙軍は趙葱と斉将顔聚が指揮を執る事になったが、彼らは間もなく王翦に大敗し、趙葱は戦死し、大勢の趙兵が殺害された。

 

BC228年 王翦は李牧誅殺の3か月後に趙葱・顔聚を破り、趙都の邯鄲を陥落させた。また、羌瘣とともに東陽を平定し、逃げていた趙の幽繆王を捕らえた。しかし、趙の公子嘉が自立して代王になる。

生まれた邯鄲に入った秦王政は、母の太后の実家と揉めていた者たちを生き埋めにして秦へ戻った。さらに兵を指揮して燕を攻めようとして中山(現在の山西省北部)に駐屯した。

ここで韓に続き趙が滅びることとなります。

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