史実から見たキングダム全史8 燕攻略から楚攻略まで

スポンサーリンク
キングダム全史
キングダムアニメより引用

史実から見たキングダム全史。

 

第8回は燕攻略から楚攻略までを見ていきます。

 

BC227年 王翦が辛勝とともに燕を攻めて、燕・代連合軍を易水の西に破った

 

BC227年 燕の太子丹は荊軻という刺客に命じて秦王暗殺計画を立てる。荊軻は督亢(とくごう)の地図と秦の裏切り者の樊於期の首を携えて秦王政への謁見に臨んだ。

地図と首が入る二つの箱を受け取った秦王政が巻物の地図をひもとくと、中に隠していた匕首(短刀)が最後に現れ、荊軻はそれをひったくり秦王政へ襲いかかった。

秦王政は身をかわし逃げ惑ったが、護身用の長剣を抜くのに手間取った。宮殿の官僚たちは武器所持を、近衛兵は許可なく殿上に登ることを秦の「法」によって厳しく禁じられ、大声を出すほかなかった。

しかし、従医の夏無且が投げた薬袋が荊軻に当たり、剣を背負うよう叫ぶ臣下の言に秦王政はやっと剣を手にし、荊軻を斬り伏せた。

 

BC226年 秦王政は激怒し、燕への総攻撃を仕掛ける。王翦は王賁と共に燕の太子丹の軍を破って、燕都の薊を平定した。

李信は遼東に逃げ出した太子丹の首を得る。秦王は荊軻の血縁をすべて殺害しても怒りは静まらず、ついには町の住民全員も虐殺された。

この年、王翦は老病の故をもって、将軍を辞して帰る。

 

BC226年 昌文君が死去。李斯が左丞相になる。『睡虎地秦簡』によると楚の国人たちは昌文君を楚王に擁立する動向があったと記されている。

 

BC226年 秦は次の標的を楚とした。秦王政は楚攻略に必要な兵数を訊くと李信は20万と答えた。同じ質問を老将の王翦に訊くと60万と答えた。

すると政は「王将軍(王翦)も年をとったな。戦場が恐ろしくなったのか。李将軍(李信)は果断勇壮だ。李将軍の言葉に間違いは無い」と言い、20万の兵で楚に侵攻した。

意見を取り上げてもらえなかった王翦は病気と称し故郷に引きこもった。また政を諫めた右丞相の昌平君も失脚した。

 

政は李信・蒙恬に10万人ずつの兵を託し楚の討伐に向かわせた。李信は平輿から、蒙恬は寝丘から攻め入り、寝丘の北の城父で合流する予定だった。両軍は勝利を重ねていて、特に李信は快進撃していた。

しかし、前年に民の安撫のため楚の公子である元右丞相の昌平君を配した楚の旧都郢・陳で起きた反乱や項燕の奇襲により大敗し2つの土城と7人の部隊長を失った。そのため王翦のいる頻陽に秦王政自ら向かい詫びを入れた。

 

BC225年 王賁が魏を攻め、黄河の水を魏都の大梁に引いてこれを包囲。当時、楚は防衛に専念していて、斉は傍観していた。よって援軍が来るあてもなかった。

状況を理解すると、魏王假は急いで開城し、魏の人々のさらなる流血を避けるために秦軍に降伏した。これにより魏が滅びた。

 

BC224年 秦王政より要請を受け、再び軍の将として王翦が60万の大軍を率いて楚に進攻、王翦は堅守・不出の戦術を使い、項燕の防備に隙ができるように仕向けた後、項燕の軍を奇襲して楚軍を大破、楚王負芻は俘虜となった。

項燕は淮水以南で負芻の異母兄弟である楚の公子昌平君を楚王として擁立して反抗した。

政は楚を破れるのは王翦しかいないと判断し、王翦の邸宅を自ら訪ねて将軍の任を与え、王翦が先に述べた通り60万の兵を与える。

これは秦のほぼ全軍であり、反乱を起こすには十分過ぎる数だったため、臣下には疑いを抱く者も多数いた。

王翦は、楚軍の迎撃に出るが、政自ら見送った席で「秦王様、戦勝の褒美には美田屋敷を賜りたい」と言った。

王翦はその席のみならず、行軍の途中ですら、勝利後の褒美は何がいいか、一族の今後の安泰は確かかなどを問う使者を政に逐一送った。

王翦は、政に逐一送った使者について、部下から「余りに度々過ぎます。貴方はもっと欲の無い人だと思っていましたが」と訊ねられた際、「お前は秦王様の猜疑心の強さを知らない。今、私は反乱を起こそうと思えば、たやすく秦を征し得るだけの兵を指揮している。

秦王様は自ら任せたものの、疑いが絶えないだろう。私は戦後の恩賞で頭が一杯であると絶えず知らせることで、反乱など全く考えていないことを示しているのだ」と答えた。

 

王翦は政の猜疑心の強さと冷酷さを良く理解していた。引退を申し出たのも、政は役に立つ人間には丁重だが、役に立たないと判断した人間には冷淡で、特に権勢があるものはどれだけ功績があろうとも些細な疑いで処刑・一族皆殺しにしかねなかったためである。

自分の意見が採用されなかったことで、政が「王翦は老いて衰え、弱気になった」と思っていると察し、素早く将軍の座から退いた。実際に引退を申し出た際、政は「許す」と言っただけで全く引き止めなかった。

このため、政本人から将軍に請われ、ほぼ全軍を与えられてもいい気にならず、猜疑を打ち消す心配りを絶やさなかったのである。

 

国境付近に到着すると、堅固な砦を築いて楚軍を待ち受けた。楚軍もここへ到着し砦を攻め始めたが、その堅牢さに手を焼いた。一方の秦軍も防御に徹して砦から出なかったため、膠着状態となった。

楚軍は、攻めても挑発しても秦軍の出てくる気配が全くなく、砦も堅牢なため、これでは戦にならないと引き上げ始めた。

しかし、これこそ王翦の待っていた機会であった。追撃戦で楚軍を破るために、砦に篭る間も兵達に食料と休息を十分に与え、英気を養っていたのである。

英気が余って遊びに興じる兵達を見て、王翦は「我が兵は、ようやく使えるようになったぞ」と喜んだという。王翦が指揮を執る秦軍は、戦闘態勢になかった楚軍の背後から襲い掛かり、散々に打ち破った。

 

BC223年 楚王負芻が秦に捕らえられ、楚が滅亡。項燕により淮南で楚王負芻の異母兄弟である昌平君が楚王に立てられ、秦に背いたが、王翦と蒙武は楚軍を追撃。

昌平君・項燕ともども戦死し、ついに楚を滅ぼした。楚の旧領は秦の九江郡となった。楚の攻略には数十万人から百万人の兵士が従軍し、35年前の秦と趙の長平の戦いに関与した兵士よりも多かったと推定されている。

キングダムではここで蒙武対昌平君が描かれることとなるでしょう。作品としてクライマックスになりそうです。

 

BC222年 秦は大いに兵を輿して、王翦と蒙武はついに楚の江南を平定する。また、東越の王を降して、会稽郡を置いた。

コメント