史実から見たキングダム全史9 中華統一とその後

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キングダム全史
キングダムアニメより引用

史実から見たキングダム全史。

 

最終回となる第9回は秦の中華統一とその後を見ていきます。

 

BC222年 王賁が燕と代に侵攻した。代王嘉と燕王喜は捕虜となり完全に滅びた。

キングダム48巻で李牧が「嘉太子の時代が来た時、趙に真の光がさす・・・」と語っていました。

李牧は史実ではBC229年に死ぬことになりますが、キングダムの世界ではBC229年では死なせず、この年の代攻略まで生かしておくのではないかと予想しています。

中華統一直前のラスボスのような立場で李牧が立ちはだかるのではないでしょうか。

 

BC221年 王賁率いる秦軍が燕の旧領から南下して斉を攻めた。斉の国都臨淄を包囲し、斉は戦わずして降伏した。王建は魏の旧領の500里の邑へ赴いたが、食糧を絶たれ、餓死した。

これにより秦は中華統一が達成した。ここに戦国時代は終結し、中国史上初めての統一王朝が誕生した。

秦が六国を統一し、騰が内史に任命された。騰は恐らくこの年のうちに亡くなった。

 

秦の統一後、丞相の王綰・御史大夫の馮劫ら重臣は始皇帝に、周の制度である封建制を採り入れ、始皇帝の公子達を各地の王として封じるようにと進言した。

だが、李斯はそれに猛反対して、周が何故滅んだかの理由を具体的に述べた上、一層強い集権統治である郡県制への移行を説いた。

また、自らの法家思想と対立する学問に対し、大規模な思想弾圧を実施し、儒学を含めた思想書を集めて焼却させた(焚書)。

この際に、多くの貴重な歴史的史料が失われた。また奉仕の盧生の逃亡から始まる告発により、罪を犯した学者を数百人規模で逮捕し、生き埋めにして殺害した。この中には多くの割合で儒者が含まれていたとされる(坑儒)。

 

BC215年 蒙恬が30万の軍を率いて匈奴を征伐する。オルドス地方を奪って匈奴を北へ追いやると、辺境に陣して長城、直道(直線で結ぶ道)の築造も担当した。

これらの軍功に始皇帝からも大いに喜ばれ、弟の蒙毅も取り立てられ、蒙恬が外政に蒙毅が内政に両者とも忠誠と功績を認められた。

この頃、始皇帝に焚書を止める様に言って遠ざけられた始皇帝の長男である扶蘇が蒙恬の元にやって来て、扶蘇の指揮下で匈奴に当たるようになった

 

BC210年 始皇帝が巡幸の道中で崩御した。始皇帝の遺勅は「太子の扶蘇に後を継がせる」というものだったが、胡亥・趙高・李斯の三人は共謀して胡亥を皇帝に立てて自らの権力を護ろうと画策した。

趙高らは始皇帝の詔書を偽造し、扶蘇と蒙恬に対して自殺を命じた。蒙恬はこれを怪しみ、真の詔書であるかを確かめるべきだと主張したが、扶蘇は抵抗せずに自殺した。

蒙恬はなおも抵抗したものの即位した胡亥(二世皇帝)からの自殺命令が届くとやむを得ず、毒を飲んで自殺した。蒙恬の死後、蒙毅も趙高により、言いがかりを付けられて、蒙氏一族は皆殺しにされた。

蒙恬は自殺する際に「私に何の罪があって、過ちもないのに死ななければならないのか」と自らに問いかけて嘆き、それから「私の罪が死に当たるのも無理はない。長城を築くこと数万里、その途中で地脈を絶ったのだろう。それこそが私の罪である。」と言って毒を仰って自殺した。

 

BC209年 趙高は有力者や不平派を悉く冤罪で殺害し、蒙毅もこれによって誅殺された。

胡亥を丸め込み、宮中に籠らせて贅沢三昧の生活をさせ、自らは代わって政務を取り仕切って実権を握った。胡亥の傀儡ぶりは著しく、丞相李斯ですら趙高の仲介なくしては胡亥に奏上も適わなかった程であった。

皇帝の権威、即ち自らの権威を高めることに腐心し、阿房宮の大規模な増築を進め、人民に過重な労役を課す。恐怖政治を敷いたことと合わせ、大いに人民から恨みを買うことになった。

 

BC209年 陳勝・呉広の乱を初めとして反乱が続発し、国内は大混乱になった。しかし暗愚な二世皇帝は遊び呆けて、宮廷の外の状況を知らない有様だった。

李斯は右丞相馮去疾や将軍馮劫と共に、阿房宮の造営などの政策を止めるよう諫言したがかえりみられず、馮去疾と馮劫は結局、自害した。

それでも李斯は諫言を重ねたが、かえって皇帝の不興を買い、さらに趙高の讒言で疎まれ、追い詰められていった。

 

BC208年 ついに李斯は捕らえられる。凄惨な拷問に耐えられず趙高が捏造した容疑(楚の項梁の軍勢に討ち取られた李斯の長男で三川郡守の李由が生前楚軍と内通していたという罪)を認め、市中で五刑(鼻・耳・舌・足を切り落とし、鞭で打つこと)の末に腰斬(胴斬り。受刑者を腹部で両断し、即死させず苦しんで死なせる重刑)に処され、生涯を終えた。

その時に李斯は並んで刑場に引っ立てられた次男の李執に対して「私は故郷の上蔡で、猟犬を連れ、お前と兎狩りによく出かけた。また狩りに出かける夢は、もう適わないのだな」と無念そうに述べたという。

李斯の息子は始皇帝の皇女を娶り、彼の娘は始皇帝の公子に嫁いでいたと伝わるが、一族は全て誅殺され、李斯一族は根絶やしとなった。

李斯は法家理論の完成者の韓非に対して、法家の実務の完成者とされる。李斯は韓非を謀殺した事や偽詔で扶蘇を殺した事、他にも儒者を徹底的に弾圧した焚書坑儒に深く関わったため、後世の評判は非常に悪いが、秦の中国統一において最も大きな役割を果たしていた。

司馬遷も、李斯が道を誤らなければその功績は周公旦・召公奭に比肩したであろうとしている。

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