第四紀から現代まで -ロードオブザリング全史-

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ロードオブザリング
映画ロードオブザリングより引用

第四紀

中つ国の歴史で、力の指輪が中つ国を去ってからの時代。人間の時代であり人間以外の「口を効く種族」がすべて衰退する時代でもある。

指輪所持者達が中つ国を去った3021年9月29日が第三紀の終わりとされているが、ゴンドールの暦では、第三紀3021年3月24日が第三紀最後の日となり、翌3月25日が第四紀最初の日となる(指輪所持者が使命を達成し、サウロンが滅びた3月25日より新年が始まるように定められたため)

 

2年 サムワイズ・ギャムジーとローズ・コトンの第二子である長男フロドが生まれる。名はフロド・バギンズにちなむ。

 

6年 小足家のウィル、庄長職を辞任し、サムがホビット庄庄長に選出される。

ペレグリン・トゥックはロング・クリーヴのダイアモンドと結婚する。

エレスサール王、勅令を発して、人間がホビット庄には入るのを差し止める。

ホビット庄は統一された王国の範疇であったが、そこをホビットの自由地とした。

エレスサール王自身もそれを守り、サムワイズ・ギャムジーをはじめとした友人達と会うため、王と王妃らはブランディワイン橋のたもとまで行幸したが、庄内に立ち入ることはなかった。

 

9年 ペレグリン・トゥックの息子、ファラミアが生まれる。

 

10年 サムワイズ・ギャムジーとローズ・コトンの娘、金捲毛(ゴールディロックス)が生まれる。名前の通りホビットには珍しい金髪の持ち主。

 

11年 メリアドクは館主の地位を継ぎ、偉丈夫と呼ばれた。メリアドクはローハンとの友情を保持し続け、館主となった時にはエオメルとエオウィンより見事な祝いの品々が届けられた。

 

13年 トゥック家の家長となったペレグリンはセインの職を受け継いだ。

エレスサール王はセイン(ペレグリン・トゥック)、館主(メリアドク・ブランディバック)、庄長(サムワイズ・ギャムジー)を北王国の顧問官とする。

サムワイズは二期目の庄長に選出される。

 

15年 エレスサール王が北王国に行幸しイヴンディム湖のほとりに滞留する。王はブランディワイン橋に行幸し友人方と挨拶する。

王はサムワイズにドゥーネダインの星を与える。サムワイズ・ギャムジーとローズ・コトンの長子である長女エラノールはアルウェン王妃の侍女になった。

 

20年 サムワイズは三期目の庄長に選出される。

 

21年 サムワイズ・ギャムジーと妻のローズ・コトン、娘のエラノールはゴンドールに赴き、かの地に一年滞在する。

ローズの兄でサムワイズの義兄弟のトルマン・コトンが庄長代理を勤める。

この年、サムワイズ・ギャムジーとローズ・コトンの末子トルマン生まれる。

トルマンは十三人目の子供であり、これはホビット庄においてトゥック翁の子沢山記録を上回るものであった。

 

27年 サムワイズは四期目の庄長に選出される。

 

30年 美しのエラノールが向が丘連丘緑樫のファストレドに嫁ぐ。

 

31年 向が丘連丘から塔山丘陵(エミン・ベライド)にいたる西境は、王の贈与によってホビット庄に加えられる。多数のホビットがこの地に移住する。

 

33年 ファストレドとエラノールの息子、髪吉エルフスタン生まれる。

 

34年 サムワイズは五期目の庄長に選出される。サムワイズ殿の願いにより、セインはファストレドを西境の区長に任ずる。

ファストレドとエラノール、塔山丘陵の塔の下に居を定める。

この地に、かれらの子孫、塔の下の髪吉一族、子々孫々にいたるまで居住する。

 

41年 サムワイズは六期目の庄長に選出される。

 

42年 ペレグリン・トゥックの息子、ファラミア・トゥックとサムワイズ・ギャムジーの娘、金捲毛が結婚する。

 

43年 エレスサール王とアルウェンの息子、エルダリオンが生まれる。

 

48年 サムワイズ、これを最後に七度庄長となる。

 

61年 サムワイズの妻ローズ夫人、夏至の日に死ぬ。サムワイズは最後の指輪所持者として西方への旅に出る。

サムワイズは、袋小路から馬を進め、塔山丘陵に来て、最後はエラノールに見送られる。この時、エラノールに西境の赤表紙本が受け継がれる。

髪吉一族の間にエラノールから伝えられたいい伝えによると、サムワイズは塔山丘陵を過ぎて、灰色港に赴き、最後に残った指輪所持者として、海を渡って去ったという。

 

63年 この年の春、ローハンのエオメル王はもう一度メリーに会いたい旨の伝言をバック郷に送る。

この時メリアドクはすでに老齢(102歳)だが、いまだ矍鑠としていて、友のペレグリン・トゥックと相談の後、二人は直ちに各自の財産、職務をめいめいの息子に譲り、馬でサルンの浅瀬を渡って去ったまま、二人はホビット庄に戻らなかった。

同年の秋にエオメル王は崩御。エオメルの治世は長命王アルドールに次ぐ65年に及んだ。王位は息子のエルフウィネが継承した。

エオメル王が崩御するまで、メリーとピピンは共にいたという。

その後、メリーとピピンは、ゴンドールに赴き、短き余生をこの国で過ごしたすえ、遂にみまかった。二人はゴンドールの高貴な死者とともに、ラス・ディネンに葬られたという。

 

82年 ゴンドールの大公、ファラミアが死ぬ。かれの息子エルボロンが大公を継いだ。

 

120年 自らの死期を悟ったエレスサール王は、ラス・ディネンの王家の廟所に用意された自分の寝台に身を横たえ、息子のエルダリオンに王位を譲り、アルウェンに別れを告げると、ドゥーネダインに残された「自らが望むときに生を返上する」という恩寵を受け、崩御した。

エレスサール王の寝台の傍らには、先にゴンドールで死去し、ラス・ディネンに葬られていたメリアドク・ブランディバックとペレグリン・トゥックの寝台が並び置かれたという。

 

レゴラスはイシリアンで灰色の船を建造し、アンドゥインを下って、海を渡った。かれとともに、ドワーフのギムリも行ったという。

ドワーフが自ら進んで中つ国を去るなど信じがたいことだが、それほどまでにレゴラスとの友情は大きく、さらに(先にアマンへ去った)ガラドリエルへの尊崇の念が強かったのかもしれない。

また、ギムリがアマンに渡ることができたのも、ガラドリエルの口添えのためであるかもしれない。

レゴラスとギムリが去ったことで、中つ国において指輪の仲間は跡を絶った。

 

121年 アルウェンは子供達や親しかった者に別れを告げ、ミナス・ティリスを去る。

そして、ガラドリエルやケレボルンが去って沈黙の地となっていたロスローリエンに赴いて冬が来るまで一人で暮らし、最後はかつてアラゴルンと婚約した場所であるケリン・アムロスに身を横たえたという。

この後、ファラミアの孫バラヒアは「アラゴルンとアルウェンの物語」を執筆した。

 

172年 髪吉家に受け継がれていた西境の赤表紙本の写本であるセイン本を所持していたペレグリンの曾孫はゴンドールの王の祐筆フィンデギルにさらなる写本を依頼し、この年に完成する。

フィンデギルの写本は後に大スミアルに収蔵された。この写本は全5冊よりなる。

一冊目は元々はビルボの日記兼回顧録であり、彼の最初の冒険に関する記述が書き込まれた後、資料を引き継いだフロドが指輪戦争の記録で残りページのほとんどを埋め、それを引き継いだサムワイズによって最後の数章が記されて完成された。

残りの三冊は「エルフ語から翻訳したもの」と題されており、ビルボが裂け谷において収集した主に上古にまつわる膨大な歴史資料からなっている。

最後の五冊目は髪吉家に所蔵された後に付け加えられたもので、注解や系図、その他フロドの同志のホビットに関する事跡が記されていた。

大スミアルの写本はビルボ・バギンズが裂け谷で執筆した「エルフ語から翻訳したもの」が全て収録されている唯一の写本であることから、トールキンはこれを「一番重要な写本」と評している。

トールキン教授がこの写本および関連資料の内容を比較検討し、西方語で書かれた内容を「英語に翻訳」して本にしたものが『ホビットの冒険』や『指輪物語』、および『シルマリルの物語』などである、ということになっている。

 

第四紀以降

この後も歴史は続き、我々が今生きている歴史に合流する。

トールキン教授によると、我々の現代より約6000-8000年前が指輪物語の時代であり、現代は第五紀か第六紀に相当するということである。

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