史実から見たキングダム全史6 キングダム34巻から45巻まで

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キングダム全史
キングダムアニメより引用

史実から見たキングダム全史。

 

第6回は合従軍編が終わった34巻から鄴攻略編直前となる45巻までのBC240年からBC237年までを見ていきます。

 

BC240年 蒙驁が死没。キングダム34巻で描かれています。

 

BC240年 秦が魏の慶都、汲を落とす。キングダム34巻では王翦、桓齮が落としたことになっているが史実に記載はありません。

 

BC240年(キングダム) 政と向の娘である麗が生まれる。

 

BC240年 慶舎が東陽と河外の地の兵を率いて、黄河の梁(はし)を守った。

 

BC239年 秦は蔡沢を燕にやった。蔡沢は3年かけて同盟を成功させ、燕は太子丹を人質に送ってきた。

 

BC239年 成蟜が軍を率いて趙を攻撃したとき、屯留・蒲鄗の兵卒を従えて謀反した。秦がこれを攻撃すると、成蟜は屯留で死に、軍吏はみな斬り死にし、その民は臨洮に遷された。

キングダム34巻から35巻で描かれるエピソード。キングダムでは趙が攻めてきたことになっています。また物語上成蟜を良く描くために脚色されています。

史記には「将軍壁死」とあり、壁は当初ここで死ぬためのキャラクターとして登場。しかし「壁死」というのは城内で死ぬという訳であると解釈もでき、キングダムでは壁がここでの死を免れ、反乱軍の大将として描かれた龍羽将軍が死ぬこととなりました。

 

BC239年(キングダム) 著雍攻略戦。騰と呉鳳明が戦ったこの戦争はキングダムのオリジナルエピソード。魏火龍というのもキングダムオリジナル。

 

BC239年 呂不韋が呂氏春秋を発表。一字千金の逸話で有名。キングダム37巻で描かれました。

 

BC239年 嫪毐が長信侯に封じられた。また、多くの食客を擁するようになり、呂不韋に次ぐ権勢を誇った。また、太原郡の汾河以西を毐国とした。

キングダム37巻から描かれた嫪毐反乱編はほぼ史実通りです。

 

BC239年(キングダム) 騰が大将軍に任命される。信と王賁が5千人将に、羌瘣が3千人将に昇格。

 

BC238年 嫪毐と太后の不義と隠し子が露見する。政は元服の歳を迎え、しきたりに従い雍に入った。

嫪毐は御璽及び太后の印璽を盗み出して兵を集めて反乱を起こそうとした。しかし既にそれに備えていた政の命を受けた楚の公子である昌平君と昌文君の叔姪によって咸陽で返り討ちに会い、逃亡したものの捕らえられて車裂きの刑に処され、その一族や太后との間のふたりの息子もことごとく処刑された。

事件の背景が調査され、呂不韋の関与が明らかとなった。しかし過去の功績が考慮され、また弁護する者も現れ、相国罷免と封地の河南での蟄居が命じられたのは翌年となった。

だが呂不韋の名声は依然高く、数多くの客人が訪れたという。この功績により昌平君は右丞相、昌文君が左丞相となる。

キングダムでは飛信隊が乱を抑えたとして描かれていますが史実で活躍したのは昌平君と昌文君の二人。史実ではこのタイミングで昌平君と昌文君が丞相となりました。

反乱軍の将軍として出てくる樊於期は史実では燕に亡命した将軍です。いつ頃亡命したかはわかっていませんが死亡したのはBC227年とわかっています。

燕が起こした政の暗殺未遂事件で刺客の荊軻が信用を得るために首級として樊於期の首を持参したのです。

樊於期は一族を族滅した政への復讐を果たすため、自刃して自らの首を提供したと言われています。作中でもこの時点では生き残っているので、いずれ描かれることになるのでしょう。

なお桓齮との同一人物説もありますが、キングダムでは別人として描かれているため、桓齮と樊於期の最後は別々に描かれることになるはずです。

戎翟公のワテギはオリジナルキャラクターですが戎というのは中国の西および北に住んでいた遊牧民族を指します。

BC649年とキングダム上の物語より遥か昔に戎翟と周が戦ったという記録が残っています。秦は史実でも幾度となく戎を征伐しており、そのうちの一つの民族の末裔として作品に登場させたのだと思われます。

 

キングダム40巻では昌平君が活躍。「幼少期蒙武より強かった」「誇張して言うなら武力は蒙武級」という介億の発言や9巻でも蔡沢が「すでにお主より強い男がそこにいるぞい」という発言をしており蒙武との強さ比較の伏線が張られています。

これはBC223年の楚攻略戦で蒙武と昌平君が戦うことになる伏線でしょう。

「ゾッとするであろう。あの御方が秦ではなく生国の楚で立っていたとしたら」という介億の発言も現実のものとなります。

果たしてキングダムでは蒙武と昌平君のエピソードをどのように終わらせるのか。キングダムにおける一つのクライマックスになるでしょう。

 

また40巻では政の長子の名前が扶蘇だと判明します。長子が扶蘇というのは史実通りですが扶蘇が王になることはありません。これは秦の中華統一後の話になるので理由はここでは述べずBC210年に述べることとします。

41巻では中華統一までに15年という具体的な目安の数字が出ましたが、実際は中華統一までこの時から17年かかります。

 

BC238年 楊端和が魏の衍氏を落とした。キングダム41巻で描かれています。

 

BC238年 楚の考烈王が病死する。葬儀に向かう春申君は棘門(城門の名前)で待ち伏せていた李園の刺客に従者もろとも殺害され、城外にその首を捨てられた。そして、一族郎党皆殺しとなった。

李園の妹が産んだ子が即位し、幽王となった。

李園は春申君の食客のひとりであった。李園の妹の李環は美人でいずれ考烈王に差し出して出世しようと企んでいた。春申君はその妹を寵愛していた。その後、李園の妹は春申君の子を身籠った。

これに対して李園は考烈王に嗣子がないことに付け込んで、春申君に李園の妹を考烈王に献上し、腹の中の子を考烈王の子として、次代の楚王にすれば、楚を手に入れることができると唆した。

春申君はこの策を真に受けてしまい、考烈王に進言し李園の妹を献上した。李園の妹は王后となり、李園は要職についた。

その後、李園は事の露見を恐れて春申君の命を狙うようになった。春申君の食客の朱英は危機感を覚え、李園の殺害を命じるよう春申君に言ったが、春申君は李園を軽く見ていたのでこれを相手にしなかった。身の危険を感じた朱英は間もなくそのまま逃亡した。

 

春申君殺害の話はほぼ史実通りですが媧燐はキングダムのオリジナルキャラクターなので媧燐が宰相になるというのももちろんキングダムオリジナルストーリーです。

 

BC238年(キングダム) 黒羊編はキングダムのオリジナルストーリー。史実で桓齮が将軍になるのは翌年のことです。

趙将の慶舎は最後に史実に登場するのがBC240年なのでそれ以降はいつでも退場させることができました。ここで退場させるのも妥当でしょう。また、紀彗はキングダムのオリジナルキャラクター。

45巻で李牧が「桓齮の弱点がわかった」「私がこの手で仇を討つ」ということを言っていましたが、これはBC233年に行われる肥下の戦いの布石でしょう。

史実ではここで桓齮が李牧に敗れて史実からは消えることになります。キングダムでは桓齮の退場をどのように描くのでしょうか。

 

BC237年 斉と趙が秦に来朝。キングダム45巻で描かれたエピソード。実際に王建と李牧が来たという記録はありませんし目的も定かではありません。

 

BC237年 蔡沢が死去。

 

BC237年 桓齮が将軍になる。

 

BC237年(キングダム) 飛信隊が入隊選抜試験を行う。李斯が牢から出る。

 

BC237年 嫪毐という他国出身者が反乱を起こしたために、秦の国内で他国出身者の評判が悪化し、やがて他国人の追放令(逐客令)が出た。

事態に苦慮した李斯は、政に嘆願書を出して追放令の撤回を求めた。この『諫逐客書』は実に理路整然とした名文で、後世の『文選』にも収録されているほどである。

政もこの名文に感じ入り、追放令の撤回を決めた。

 

このエピソードはキングダム46巻で描かれています。李斯は中華統一後まで登場する重要キャラクターです。以下李斯の立身出世エピソードを書きます。

 

李斯は若くして地元で小役人になった。その頃、李斯は役所の便所に住むネズミを見た。便所のネズミは常に人や犬におびえ、汚物を食らっている。

また彼は、兵糧庫のネズミを見た。兵糧庫のネズミは粟をたらふく食べ、人や犬を心配せず暮らしている。彼は「人の才不才などネズミと同じで、居場所が全てだ」と嘆息した。

そして役所を辞めると、儒家の荀子の門を叩いた。学を修めたのちは秦に入って呂不韋の食客となり、才能を評価され、推薦を受けて秦王政(後の始皇帝)に仕える近侍になった。

さらに政の命令で他国に潜入し、各国の王族と将軍の間の離間を行い功績を立て、客卿(他国出身の大臣)となった。

実力者の呂不韋が自決した後、政は一層李斯を信頼するようになる。しかし、かつて共に荀子から学んだ同門である韓非が秦に迎えられ、その著作である『韓非子』を読んだ政は感心し「この作者と親しくできるのなら、死んでも悔いはない」と言うほどに韓非に傾倒していく。

韓非が登用されれば自分の地位は危うくなると考えた李斯は、政に韓非の讒言を吹き込んで投獄させ、さらに獄中の韓非に毒を渡し、有無を言わせず自殺させた。こうして競争相手を抹殺した李斯は、秦の富国強兵策を積極的に推進していくことになる。

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