第三紀 大侵略と槌手王ヘルムの活躍 -ロードオブザリング全史-

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ロードオブザリング
映画ロードオブザリングより引用

2670年 角笛吹きトボルドがホビット庄において、初めてパイプ草の栽培を始めた。

彼はどうやってパイプ草を入手したかは死ぬまで話さなかったが、『ホビット庄本草考』ではブリー村でこの植物のことを知ったのではないかと推察されている。

彼の名は「トビイ爺印」としてパイプ草の銘柄名となっている。

 

2683年 アイゼングリム二世が第十代セインとなり、トゥック一族の本拠となる大スミアルを掘り始める。

指輪戦争後、ペレグリン・トゥックがセインになると、彼や彼の後継者は、エレンディルやその子孫に関する資料・伝承の写本、抄本を、大スミアルに数多く収集した。

ホビット庄において、中つ国の西方諸国の歴史についての豊富な資料が見いだせるのは大スミアルだけだったという。

フィンデギルの筆写によるセイン本の写本は大スミアルに収蔵され、西国年代記が記されたのも大スミアルだと考えられている。

 

2698年 ゴンドール17代目執政のエクセリオン一世は白の塔を再建し、同年に死去した。

以降、白の塔はエクセリオンの塔とも呼ばれるようになった。

 

2710年 褐色人は当時無人だったアイゼンガルドを占拠した。

褐色人はアイゼン川を渡って、マーク国内への襲撃を行うようになったが、ローハン7代目の王のデーオルは彼らを追い出すことが出来なかった。

 

2740年 霧ふり山脈のオークが勢いを増し、エリアドールへ侵入した。

北方の野伏の族長第11代のアラススイルはエルロンドの息子たち(エルラダンとエルロヒア)と協力してオークと戦った。

 

2741年 ヘルムがローハン9代目の王になる。その剛力と不屈さで、歴代の王の中でも有名な人物で、槌手王として知られる。

ヘルム峡谷と角笛城の名は、彼にちなむ。

 

2747年 ゴルフィンブールに率いられたグラム山のオークがホビット庄に侵入してきた。

ホビットは戦いに慣れていなかったが、バンドブラス・トゥックが他のホビット達を率い、緑野の合戦でオークを撃退した。

バンドブラス・トゥックは牛うなりの異名で知られる、ホビットの歴史に名を残す豪傑。

ホビットとしては非常に長身で、4フィート5インチ(約135cm)にも達し、(小馬ではない)普通の馬に乗ることも出来たという。

エント水を飲んだメリアドク・ブランディバックとペレグリン・トゥックに抜かれるまでは、最も背の高いホビットとしても知られていた。

バンドブラスは緑野の合戦でオークたちの中に突っ込み、木の棍棒でゴルフィンブールを討ち取った。

バンドブラスの木の棍棒に殴られたゴルフィンブールの首は、空中を100ヤード飛んで、兎の穴に落ちた。そこからゴルフという遊びができたという。

 

2754年 褐色人の血を引くと言われたローハン西境の領主フレカはエドラスの会議に突然現れ、自分の息子ウルフの嫁としてヘルムの娘を要求したため、ヘルムは彼と口論になった。

西境はアイゼン川とアドーン川の間の土地で名目上はローハンの国土だが、ロヒアリムと対立する褐色人の影響が強い土地で、ローハン王の権威に従わない傾向にあった。

王宮内では私闘が禁じられていたため、ヘルムはフレカを強引に外へ連れ出し、彼を殴り殺した。

ヘルムはフレカの近親者を王の敵だと宣言し、西境に兵力を差し向けて彼らを追放した。

 

2758年 ゴンドールとローハンが敵たち(海賊、東夷、褐色人)による大規模な侵略を受ける(大侵略)

ゴンドールでは19代目執政ベレンの時代であった。ウンバールとハラドで長い時間をかけて準備された三つの大艦隊が、ゴンドールの沿岸全域を襲い、北は遠くアイゼン河口に至るまで大挙して上陸した。

この時の危難は、ケレブラントの野の戦いを凌ぐものであったという。そのためゴンドールは、より深刻な状態にあったローハンに援軍を出すことができなかった。

 

南からのゴンドール攻撃と時を同じくして、ローハンは東から東夷に侵攻される。

フレカがヘルムに殺された一件で遺恨のあった褐色人はこれを時機到来と見て、西からローハンに侵攻。

さらにこれにアイゼン河口に上陸した海賊が加わり、ふくれ上がった敵たちに東西から攻撃されたローハンは国土を完全に蹂躙された。

ヘルムの息子、ハレスは黄金館を最後の一人になるまで守り討ち死にした。

敗れたヘルムは角笛城に籠城。フレカの息子ウルフはエドラスを奪い、王を僭称するまでに至る。

 

2759年 長い冬のためにロヒアリムもその敵も寒さと飢えで大きな損害を受けた。

ヘルムの息子、ハマは長い冬の寒さと飢えに悩まされ、自暴自棄となって出撃し、雪の中で行方不明となった。

息子達を失った哀しみと、冬の飢えのために自暴自棄になったヘルムは、痩せさらばえた身体に白装束を纏うと、大きな角笛を一吹きしては単身で砦から出撃し、敵の野営地に乗り込んでいって素手で多くの人間を殺した(槌手王の名はそれに由来する)

褐色人の噂では、ヘルムは食料が見つからなければ人間を食べたといわれ、このことは褐色人の国で長く語り伝えられた。

このため大角笛の音がこだまする度に敵は恐れて奥谷を下って逃げ去った。

 

ようやく冬の終わりが近づいたある日の夜、ヘルムは角笛を吹いて出撃したが戻らず、朝になって堤防の上に立ったまま死んでいる姿で発見された。

だがその後もヘルム峡谷では大角笛の音が時折こだまし、ヘルムの亡霊が現れてマークの敵を恐怖で殺すと言い伝えられた。

彼が葬られたエドラスの塚山には、ひときは多くのシンベルミネが咲き、あたかも雪をかぶっているように見えたという。

ヘルムとその息子達の死によって、マーク王家の第一家系は途絶えた。王位は彼の姉妹ヒルドの息子フレアラフが継承し、第二家系となった。

 

長い冬が終わると、フレアラフは馬鍬砦から少数の部隊を率いて出撃し、メドゥセルドを奇襲してウルフを討ち取り、エドラスを奪回した。

アイゼンガルドを占拠していた褐色人も冬による飢饉に苦しめられてフレアラフに降伏し、東夷は雪解けで発生したエント川の大洪水によって死ぬか撤退した。

白の山脈の南ゴンドールは長い冬による被害は少なかった。執政ベレンの息子ベレゴンドはゴンドールの大将として戦い、春が来る前に海賊を撃退し、すぐさまローハンに援軍を送った。

ベレゴンドから送られたゴンドールの援軍にも助けられ、フレアラフはマークから褐色人を駆逐した。

 

しかし勝利したとはいえ長い冬と戦争の被害でロヒアリムは数を減じ、ローハン谷の守りが手薄となった。

そんな中、フレアラフの戴冠式の時、サルマンが贈り物を携えて現われ、ロヒアリムも彼を味方として歓迎した。

アイゼンガルドの租借を申し出たサルマンをゴンドール、ローハン両国は受け入れ、執政ベレンはサルマンにオルサンクの鍵を与えた。

大侵略と長い冬の飢饉によって疲弊していた当時のマークにとって、サルマンの存在は有益なものだった。

また、ホビット庄のホビットたちも、長い冬とそれに伴う飢饉によって大勢の犠牲を出した。

この時、庄民を救うべくガンダルフがホビット庄を訪れた。飢饉は2758年から60年(ホビット庄暦1158~60年)まで続いた。

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