史実から見たキングダム全史2 6大将軍の時代

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キングダム全史
キングダムアニメより引用

史実から見たキングダム全史。

 

本日は旧6大将軍が活躍していた時代から政(始皇帝)が生まれる直前のBC306年からBC260年までを見ていきます。

 

BC306年 秦で昭襄王が即位。キングダムで戦神昭王として描かれた人物です。作中の6大将軍の時代はこのあたりから始まります。

 

BC301年 蜀侯惲(恵文王の子)が謀反を起こしたので、司馬錯がこれを鎮圧した。

 

BC298年 斉の宰相の孟嘗君が韓・魏との連合軍を組織し、匡章を統帥として秦に侵攻した(三国聯軍攻秦の戦い)。

秦が函谷関に追いつめられると趙・宋も加わり五国連合軍となったため、秦は使者を送って講和を求めた。この後、東では斉が伸張し、宋を併合するなど、周辺諸国を圧迫していった。

 

BC294年 白起が韓の新城を攻めた。作中で6将筆頭とされた白起がこのあたりから活躍を始めます。

 

BC293年 伊闕の戦い。白起を大将とした秦軍が韓と魏の連合軍を破る。白起は魏軍に対して兵力を集中させ、猛攻を仕掛けた。

魏軍は戦敗し、その後韓軍も戦敗し、敗走した。秦軍は追撃し、大勝した。白起はこの功により国尉となった。

 

BC292年 白起と司馬錯が魏を攻め、大小61城を落とした。

 

BC291年 司馬錯が魏を討ち、軹・鄧を取った。また、白起と司馬錯が垣の城を落とした。

 

BC289年 司馬錯が魏を討ち、垣・河雍・決橋を取った。

 

BC286年 東の斉・西の秦の二強国時代を作る。この時に秦の昭襄王は斉の湣王と共に王の上の称号である帝の称号を使うことに決めた。

 

BC286年 司馬錯が魏の河内を攻め、魏は安邑を秦に献じた。

 

BC284年 強国となった斉に危機感を持った秦以外の5か国は楽毅を大将とする燕・趙・韓・魏・楚の合従軍で斉を攻めた。キングダム作中の合従軍編で以前1度だけあったと書かれていた合従軍がこの戦いである。

作中では1度だけと書かれているのでBC318年の第一次函谷関の戦いは無かったことにされている。おそらくかつても函谷関で合従軍を退けたことがあったことを書いてしまうとストーリーに緊迫感が出ないからであろう。

作中で描かれたように斉は莒と即墨の2城を残して領土を全て奪われた。しかし即墨で抵抗を続けた田単らの活躍により、3年以上包囲を続けられても莒と即墨の2城は落ちなかった。

 

BC283年 廉頗が将軍となり秦を討ち、昔陽を取る。

廉頗は藺相如と当初仲が悪かったが、後に刎頸の交わり​「お互いに首を斬られても後悔しないような仲」という故事に残るような契りを交わした。

刎頸の交わり​についてはキングダム19巻で触れられています。

 

BC282年 廉頗が斉を討ち、陽晋(現在の山東省)を落とした。この功により上卿に任ぜられ、勇気のあることで諸侯の間で有名となる。

 

BC280年 趙奢は将軍として斉の麦丘を攻め取る戦功を上げ、武人としても着目されるようになる。

趙奢は廉頗、藺相如と共に作中で旧三大天の一人とされています。

 

BC280年、司馬錯が隴西から兵を出して蜀に出て楚を討ち、黔中を取った。また、罪人を赦して南陽に移した。

 

BC280年 司馬錯が隴西から兵を出して蜀に出て、楚を討った。同年、白起が趙を討ち、代と光狼城を取った。

 

BC279年 秦から趙の恵文王に黽池(べんち、現河南省澠池県)で両国の友好を祝おう、という招きがあった。

しかし、黽池は秦の国内、しかも趙との国境から遠く離れており、万一のことがあっても軍を送って救援することが出来ない。しかし祝宴とあっては、大量の兵を連れて行く訳にもいかない。

無事帰られるかどうかさえ危ぶまれるところで、恵文王は恐れて行きたくないと言ったが、廉頗などは「行かなければ趙は弱く卑屈だと思われ、秦を更に増長させ、諸侯にも侮れられます」と諌め、藺相如はこれに同行した。

そして黽池で祝宴が開かれたが、その席で秦の昭襄王は恵文王に対して「趙王殿は音楽がお好きだと聞いている。両国の友好を祝し、瑟を弾いて頂きたい」と要望した。

それが三度に渡り、恵文王は已む無く一曲引いたが、その直後、昭襄王は記録官に命じて国史に『秦王、趙王に瑟を弾かせた』と記載させた。

これを、秦は趙を臣下どころか楽士(宴会などで音楽を弾く使用人)扱いし見下そうとしている、と見た藺相如は昭襄王に歩み寄り、缻を差し出して、「秦では宴席で缻を叩き歌うと聞いています。両国の友好を祝し、叩いて頂きたい」といった。

確かに秦にはそのような風習があったが、中原諸国では下品とされる行為であり、また王に命じるとは無礼だと昭襄王は憤った。

しかし藺相如は全く動じず、「私と秦王様との距離は僅か五歩。私の首を撥ね、その血を秦王様に注ぎましょうか」と、暗に「断るならば、ここであなたを道連れに死ぬ」と脅した。

昭襄王の左右にいた護衛は無礼者を切り捨てようとしたが、藺相如が一度凄むと動けなかった。その気迫の凄まじさに昭襄王は已む無く缻を1回叩いた。

すかさず藺相如は記録官に命じ、国史に『趙王、秦王に缻を叩かせた』と記載させ、「秦王様のおかげで祝宴は盛り上がりました」と喜んだ。

その後、秦の臣が恵文王に「我が王の長寿を祝し、貴国の十五城を我が王に献上してはいかが」と言ったが、すかさず藺相如は「貴国こそ我が王の長寿を祝し、咸陽を献上してはいかが」と言い返した。

十五城に対し一城とはいえ、咸陽は秦の都である。当然ながら無理難題であり、言い出した秦の臣は黙ってしまった。

藺相如は終始この様にして機転を利かせ、常にやり返したので、最後まで秦は趙を格下扱いに出来なかった。

趙へ戻る際も警戒を怠らなかったので、秦は手出しできず、恵文王達は無事帰国できた。こうして藺相如は秦に外交の対等の儀礼を守らせ、趙王の身を守り、さらに趙の面子も守ったのである。

これは藺相如の勇を示すエピソードの一つ。また藺相如についてはもう一つ「完璧」の語源となったエピソードがある。

「和氏の璧」という趙の宝物があり、秦の昭襄王が自領にある15の城と交換に入手しようと趙に持ちかけた。

しかし、秦が信用できるかどうか悩んだ恵文王は藺相如を秦に送った。命をかけた藺相如の働きにより、約束を守る気の無かった昭襄王から璧を無事に持ち帰ることができ、「璧(へき)を完(まっとう)する」ことができた。

少しのきずもない、完全無欠なことを「完璧」と称するのは、そのためである。

キングダム55巻で藺相如と王騎が対峙した時、同金が「藺相如は二度ほど我らの王に会っている」と述べているが、それはこの二つのエピソードを指していると思われる。

 

BC279年 燕の昭王が死に、子の恵王が王位を継いだ。恵王は楽毅の事を太子時代から良く思っておらず、ここに付け込む隙があると見た田単は反間の計を用いた。

燕に密偵を潜り込ませ、「即墨と莒は今すぐにでも落とすことが出来る。楽毅がそれをしないのは、斉の人民を手なずけて自ら斉王になる望みがあるからだ」と流言を流し、恵王の耳に入るようにした。

恵王はこれを信じ、楽毅を解任し、代わりに騎劫を将軍として送った。このまま燕へ帰れば誅殺されると思った楽毅は、趙へ亡命した。

騎劫は楽毅の戦略とは反対に、即墨への強制攻撃を命じた。しかし、斉の軍隊と民間人の抵抗が起きて、騎劫の攻撃は実を結ばなかった。

次に田単は城内の結束を促すよう考え、城内の者に食事のたびに家の庭で祖先を祭らせた。するとその供物を目当てに無数の鳥が集り、誰しも不気味な様子を怪しんだ。

これを田単は「神の教えによるもの」と言い、「いずれ神の化身が現れて私の師となるであろう」と布告した。

これを聞いたある兵士が「私が師になりましょうか」と冗談を言うと、田単は嘘と承知した上でその者を「神師」として強引に祭り上げ、自分はその指示に従うという姿勢を見せた。そして軍令の度にこの神の名を用いて人々を従わせた。

続いて「捕虜になると鼻そぎの刑に処されると恐れている」「城の中では城の外にある祖先の墓を荒らされないか恐れている」という偽情報を燕軍に流した。

敵将・騎劫がその通りにして見せつけると、即墨の人々は燕軍への降伏を恐れ、祖先を辱められたことへの恨みから団結し、士気は大いに上がった。

城内の人々の状況から、いよいよ出撃の時期が訪れたと判断した田単は、まず城兵を慰撫した。 次に兵を隠して城壁を女子供や老人に守らせ、あたかも城内が困窮しているように装い、燕軍へ降伏の使者を派遣。

更に即墨の富豪を介して燕の将軍に対し「降伏しても妻や財産などに手を出さないほしい」との安堵の約束と金を渡した。これらのことにより燕軍は勝利を喜び、油断を深めていった。

そこで田単は千頭の牛を用意し、鮮やかな装飾を施した布を被せ、角には刀剣、尻尾には松明をそれぞれ括り付け、夜中に城壁に開けておいた穴からこれを引き連れた。

そして、たいまつに火をつけ尻を焼かれ怒り狂う牛を敵陣に放った。燕軍はその奇怪な姿の牛の突進に驚き、角の剣でことごとく刺し殺された。これは火牛の陣と呼ばれている。

また、5千の兵もこれに続いて無言のまま猛攻をかけ、更に民衆も銅鑼や鐘などで天地を鳴動させるかのように打ち鳴らし、混乱を煽った。

そのため、燕軍は大混乱に陥り、騎劫も討ち取られた。 田単はこの勢いに乗じ、70余城全てを奪回した。

これが作中で斉を攻めたと描かれた合従軍の結末です。

これにより斉は凋落し、ここから秦の一強時代になっていく。この時に昭襄王は宰相として范雎を登用する。范雎から進言されたのが有名な遠交近攻策である。

それまで近くの韓・魏を引き連れて、遠くの斉との戦いを行っていたのだが、これでは勝利しても得られるのは遠くの土地になり、守るのが難しくなってしまう。

これに対して遠くの斉や燕と同盟して近くの韓・魏・趙を攻めれば、近くの土地を獲得できて、秦の領土として組み入れるのが容易になる。この方針で近隣各国に侵攻を繰り返したのがキングダムでいう六大将軍の時代である。

 

BC278年 白起が楚の首都の郢を落とし、楚は陳に遷都した。

 

BC274年 春申君が楚の頃襄王の命を受けて秦に使いに行った。この頃、秦は韓・魏を従えて、楚を攻めようとしていた。春申君は秦の昭襄王に上書し「強国である秦と楚が争っても互いに傷つき、弱い韓・魏を利するだけ」と説いた。昭襄王はこの理を認め楚と和平することにした。

 

BC273年 楚は和平の証として太子完(後の考烈王)を秦に人質として入れることになり、春申君がその侍従として秦に入った。

 

BC273年 白起と公孫胡昜が魏の華陽を攻め、華陽の戦いで韓・魏・趙の将軍を捕え、13万を斬首した。同年、趙将賈偃と戦い、その士卒2万を黄河に沈めた。

胡昜は6大将軍の1人としてキングダムで描かれています。作中では昌平君の師であり、「王翦は軍略の才だけで6将に割って入るほどの逸材である」と語っていました。

 

BC271年 春申君と共に人質として秦に入っていた楚の太子完(後の考烈王)と昭襄王の娘のあいだに昌平君が生まれた。

 

BC269年 公孫胡昜は趙の閼与を攻めるが、趙奢の奇策にはまり、大敗した。廉頗と楽乗は救援は不可としたが、趙奢は「閼与への道は険しくて狭いので、丁度二匹のネズミが穴の中で1対1で戦うようなものです。将が勇敢な方が勝ちます。」と説き、恵文王はその意見を容れて趙奢を将軍に任じて、閼与への救援に向かわせた。

趙奢は邯鄲から30里の地に塁壁を築いて進軍を止め、閼与への救援を勧める者を斬った。その一方で秦軍の間諜をもてなして帰すなどして、秦軍の油断を誘う。

そしてそれを見計らった所で閼与への救援へと向かい、軍士の許歴の進言を受けて北山の地をいち早く占拠し、秦軍に対して一気に攻撃をかけて秦軍を敗退に追い込んだ。

趙奢は恵文王からその戦功を大いに称えられ、廉頗や藺相如と同じ地位に昇格し、馬服君に封じられる。

趙三大天という呼び名はキングダムの創作ですが、廉頗、藺相如、趙奢は紛れもなく趙の偉人であり、秦はこの三人が健在の間は、趙に攻め込む事が出来ませんでした。

 

BC265年 斉の襄王が死に、子の田建が即位した。キングダムにも登場する王建です。母親の君王后が輔政した。

 

BC264年 白起が韓の陘城を攻め、陘城の戦いで5城を落とし、5万を斬首した。

 

BC264年 楚の国元で頃襄王が病に倒れた。このままでは国外にいる太子完を押しのけて他の公子のうちの誰かが王となってしまう可能性が強いと、春申君は秦の宰相・范雎に説いて太子完を帰国させるように願った。

范雎からこれを聞いた昭襄王はまず春申君を見舞いに返して様子を見ることにした。ここで春申君は太子完を密かに楚へと帰国させ、自らは残ることにした。

事が露見した後、昭襄王は怒って春申君を誅殺しようとしたが、范雎のとりなしもあり、代わりに太子完の弟である昌文君を代わりに人質に要求したことで話はまとまり、春申君は楚へと帰国することができた。その3ヵ月後に太子完が即位して楚王となった。

昌文君は史実では春申君との人質交換で秦にやってきたんですね。

 

BC262年 白起は再び韓を攻めて野王を取り、上党郡と韓の本土が切断され飛び地となった。

 

BC260年 長平の戦い。王齕が韓の上党の地を取った。しかし、上党の民は秦ではなく趙に降ったため、趙は兵を出し長平に駐屯した。

4月、王齕は趙軍を攻めたが、趙の将軍が名将廉頗だったため討つことはできなかった。趙軍は塁壁を築いて守った。秦軍はそれを攻めたが廉頗はますます塁壁を高くして守り、何度挑発しても応じなかった。

范雎は一計を案じ、趙の孝成王に「秦軍は老人の廉頗よりも、兵法の名家たる趙括が指揮を執ることを恐れている」と逆宣伝させ廉頗を更迭させた。趙は廉頗を更迭し、趙括を将軍とした。秦はこれを聞いて、ひそかに白起を上将軍とし、王齕を副将とした。

趙奢の子の趙括は、幼少の頃より兵法を学び時には父を論破するほど兵法に通じていたが、趙奢は趙括を評価せず「あれの兵法は口先だけのものだ。戦争とは生死のかかったものであるのに無造作に論じている。趙括が将軍になれば趙を滅ぼす。」とまで言い切り、妻に対しても決して将として用いさせないように、と遺言して亡くなった。

名将・趙奢は趙括の軍才の無さを見抜いていたのだろう。藺相如も重病ながらも王宮に出向き、孝成王を諫めたが聴きいれられなかった。

趙括は着任すると、すぐに兵を進め秦軍を討った。白起は敗走すると見せかけ伏兵を潜ませた。趙軍は勝ちに乗じて追撃したが、秦の伏兵により趙軍と趙の塁壁の間を遮断して、糧道を絶たれた。

9月、趙軍の絶食は46日間に及び、互いに互いを殺しあって人肉を食う惨状だった。趙括は精兵とともに白兵戦を演じ打開を図ったが、秦はこれを射て趙括を殺した(キングダムでは副将として参戦していた王騎が討ったことになっている)。

趙軍40万は白起に降服したが、白起は「今回の戦いのきっかけになった上党の邑民は趙に帰服した。趙の士卒も、いつ心変わりするかわからない。皆殺しにしなければ、叛乱を起すだろう」と考えた。

既に秦軍の兵糧も乏しく、大量の捕虜を養うだけの量がなかったことも白起に叛乱への不安を抱かせた。白起は趙軍を偽って連れ出し、40万の士卒を穴埋めにして殺した。

長平の戦いで勝利した秦だが、范雎は長平の戦いでの白起の活躍を自らの地位を脅かすものであるとして警戒し、さらに趙の首都邯鄲に攻め込もうとする白起を押しとどめ、わずかな条件で趙と和議を結んだ。

この長平の戦いはキングダムでも何度も描かれており、趙が秦に恨みを抱く大きな要因とされました。万極は史実には出てこないオリジナルキャラクターですが、この長平の戦いで生き埋めにされた中の生き残りとされています。

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