史実から見たキングダム全史3 政の誕生からキングダム1巻直前まで

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キングダム全史
キングダムアニメより引用

史実から見たキングダム全史。

 

第3回は政(始皇帝)が生まれてからキングダム1巻が始まる直前までのBC259年からBC245年までを見ていきます。

 

史実にはないキングダムオリジナルストーリーについては年代の後に(キングダム)と入れています。

 

BC259年 政(後の始皇帝)が生まれる。漢時代に成立した『史記』「呂不韋列伝」には、政は呂不韋の子であったという部分がある。

呂不韋が趙姫を荘襄王に与えた際にはすでに妊娠していたという。後漢時代の班固も『漢書』にて始皇帝を「呂不韋の子」と書いている。

しかし始皇帝が非嫡子であるという意見は死後2000年経過して否定的な見方が提示されている。呂不韋が父親とするならば、現代医学の観点からは、臨月の期間と政の生誕日との間に矛盾が生じるという。

 

だが呂不韋は太后となった趙姫とまた関係を持っていた。発覚すれば身の破滅につながるが、淫蕩な彼女がなかなか手放してくれない。

そこで呂不韋は自分の代わりを探し、適任の男・嫪毐を見つけた。巨根で有名な嫪毐は宴会の余興として自らの一物を軸に馬車の車輪を回して見せたという。

あごひげと眉を抜き、宦官に成りすまして後宮に入った嫪毐はお気に入りとなり、侯爵を与えられた。

太后は嫪毐の巨根に夢中になり、やがて妊娠した。人目を避けるため旧都・雍(鳳翔県)に移ったのち、嫪毐と太后の間には二人の男児が生まれた。

これらのエピソードはキングダム本編でもほぼ忠実に描かれています。

 

BC259年 秦は、王陵を起用して邯鄲を包囲する。また、王齕が白起に代わって、将として趙の武安君を討ち、皮牢を取る。

 

BC258年 邯鄲を包囲した秦軍は増派もして、さらに指揮官を王齕に交代させた。しかし趙の援軍として現れた魏の信陵君・楚の春申君に大敗北を喫した。

この危機を打開するために白起に出兵するよう命令が下るが、白起は一連の范雎の行動に不信感を抱き、病と称して出仕を拒んだ。

 

BC258年 秦が趙を攻め邯鄲を包囲。趙では子楚殺害を決定したために、呂不韋は子楚を秦へ逃がすために趙の役人に大金をつぎ込み買収して秦へ逃亡させ、政親子は趙の豪族にかくまうようにさせ、無事を計った。

 

BC258年 張唐が魏を攻めたが部将の蔡尉が陣を捨てて守備しなかったので、帰還後に蔡尉の首を斬った。

キングダム合従軍編で韓の成恢を討った後に毒で戦死した張唐はこの時代から活躍していました。

 

BC257年 邯鄲出兵を拒んだ白起はさらに立場を悪くし、ついに白起は昭襄王によって自害させられた。自害の直前、白起はこのように自問した。「我に何の罪あるか。なぜ自害せねばならぬのか」と。

しばらく考えて、「我は固より死ぬべきだ。長平の戦いにおいて降伏兵数十万余りを一夜で生き埋めにした。それでも罪にならないのか。天に対し罪を犯したのだ」と嘆息した。秦の民衆は彼の死を哀れみ、各地に廟を建てて祀ったという。

キングダムで6将筆頭として描かれた白起は昭王に自害させられるという悲しい最後になりました。

 

BC257年 王齕が邯鄲を攻めたが落とせず、汾城郊外の秦軍と合流した。その後、魏を攻め、首を斬ること六千、魏軍は敗走し、黄河で二万人が流れ死んだ。汾城も攻め落とし、張唐に従って寧新中を抜いた。

 

BC256年 張唐が国として続いていた鄭を討ち、国都を落とした。同年12月、趙の邯鄲を攻略中の王齕に増兵を行ったが、邯鄲を落とすことができずに退き、汾城郊外の軍に逃げ込んでしまった。

そこで鄭にいた張唐に趙の攻略を命じ、趙の寧新中の地を抜くことに成功した。同じころ楊摎に命じて韓を討ち、韓の陽城・負黍の地を取った。

楊摎はキングダムで摎として描かれている人物です。実在する将軍だが女であったとか王騎の婚約者であったとか昭王の娘だったというのはキングダムのオリジナルエピソード。

 

BC256年 楊摎が韓を攻撃し、陽城・負黍を取り、首級4万を挙げた。さらに趙を攻撃して20県あまりを奪い、斬首した者および捕虜は9万に達した。ときに西周の文公は諸侯の軍を結集し、伊闕を出て秦を攻撃して、陽城との連絡路を遮断しようとした。

 

BC256年 楊摎が昭襄王の命を受けて西周を攻撃し、かれを降伏させた。西周の文公は秦に投じ頓首して罪を謝し、領地の邑と人民を秦に献じ、そのすぐ後に赧王は崩じた。邑と人民を失った周は実質的に滅んだ。

 

BC256年 趙の楽乗と慶舎が秦の信梁軍を破る。慶舎はキングダムにも登場する人物でこの時代から活躍していました。

 

BC255年(キングダム) 李牧と龐煖が出会う。

 

BC254年 楊摎が魏を討ち、呉城を奪った。

 

BC253年(キングダム) 摎が龐煖に敗れた後、龐煖が王騎に切られたキングダムオリジナルの戦い。この戦いは史実にはない。

楊摎はBC219年に始皇帝と共に随行したという記録があるが、将軍として史実に残っている戦いは前年のBC254年が最後である。

摎の死期をこの年としたのも史実との兼ね合いを計算してのことだろう。

 

BC251年 昭襄王が死去し、安国君が孝文王となり、華陽夫人が華陽后、子楚が太子となった。

 

BC250年 昭襄王の喪が明けて孝文王が正式に即位したが、3日後に53歳で死去した。子楚が荘襄王、呂不韋が丞相、政が太子となった。政が太子となると聞くと趙の孝成王は驚き、政母子を秦に送り返した。

キングダム8巻の闇商人紫夏と秦への帰国を目指す話はこの時のオリジナルエピソードです。

 

BC249年 斉の君王后がこの世を去り、君王后の族弟の后勝が執政した。后勝は秦から賄賂を受け取り、秦の都合のいいように主張した。王建は后勝の主張を聞き入れ五国(韓・趙・魏・燕・楚)の滅亡を傍観し、軍事を強化しなかった

 

BC249年 蒙驁が韓を伐って成皋と滎陽を取る。キングダムにも登場する蒙驁はこの時代から活躍を始めます。

 

BC249年 呂不韋が東周を攻め滅ぼす。

 

BC248年 蒙驁が魏の高都と汲を攻めた。また、趙の楡次・新城・狼孟とを攻めて37城を得る。

 

BC247年 荘襄王が死去。政が13歳で秦王に即位する。のちの始皇帝である。

 

BC247年 王齕が韓の上党を攻めて、太原郡を置いた。魏の信陵君が五カ国連合軍を率いて秦を攻めてきたのを王齕と蒙驁が迎え撃ったが敗れた。秦軍は河内から河外(河南の地)に退却し、その軍を解散した。

函谷関にまで攻め寄せられた秦は窮地に陥り、また信陵君がいる限りは魏を攻められないと考え、信陵君に殺された晋鄙将軍の下にいた食客を集め、信陵君が王位を奪おうとしているとの噂を流させた。

これにより安釐王は再び信陵君を疑って遠ざけるようになり、鬱々とした信陵君は酒びたりになり、BC244年に過度の飲酒のために死去した。

 

BC246年 王騎、麃公、蒙驁が将軍に任じられる。昌平君が副丞相として呂不韋を補佐し始める。

 

BC245年 廉頗は魏に侵攻して繁陽(現在の河北省内黄県)の城を攻め落とした。だが直後に孝成王が崩御して悼襄王が即位すると、廉頗は悼襄王によって将軍職を罷免させられた。

その事を恨んで後任の将軍の楽乗を攻撃して撃破する。これにより廉頗は趙に居られなくなり魏の大梁へ亡命する。楽乗もまた他国へ亡命してしまう。

このエピソードはキングダム18巻で描かれています。

 

廉頗のいなくなった趙は、秦王政の下でさらなる強国になろうとしていた秦の格好の標的とされた。そのため趙は廉頗のもとに使者を送って帰参を許そうと図る。

廉頗は年老いても「一飯に斗米、肉十斤、甲を被り馬に上り」といわれるほどに元気な姿を使者に見せて帰参を承知した。だが廉頗が趙にいた頃から不仲だった奸臣である郭開の謀略で使者が買収されてしまう。

そして趙王が廉頗の様子を伺うと、使者は「三度遺矢」と讒言した。このため趙王は廉頗が高齢で使いものにならないとして諦めたという。

廉頗は後に楚に亡命し、将軍に任命されるも功を立てることはなく寿春で病没した。歴戦の将軍である廉頗と楽乗が同時に出奔してしまったため、急遽、龐煖が将軍として抜擢されることになった

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