ローハンの歴史について

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ロードオブザリング
映画ロードオブザリングより引用

先日ローハンの建国当時の話を書きました。

ローハンの成り立ちについて -ローハン建国の話-

本日はローハンの建国以降の歴史をローハンの歴代国王の人物像と共に見ていきます。

 

・初代 青年王エオル 2485~2545年

第三紀2510年にローハンを建国。

2545年、高地での東夷との戦いで戦死しました。

 

・2代目 ブレゴ 2545~2570年

父エオルを殺した東夷を高地から駆逐し、敵の攻撃を退けます。

2569年に黄金館を完成させ、王宮をアルドブルグからそちらへ移しました。

しかしその落成を祝う宴で長男バルドールが死者の道を踏んで見せると誓い、実際に死者の道へ行ったきり戻らなかったため、悲嘆に駆られて早世します。

王位は次男のアルドールが継ぎました。

 

・3代目 アルドール 2570~2645年

非常に長生きで、75年間王位にあったため長命王と呼ばれます。

アイゼン川の東に残っていた褐色人の残党を完全に川の向こうまで駆逐するか、鎮圧しました。

侵略の報復としてエネドワイスの褐色人の土地を襲撃することもあったといいます。

 

・4代目 フレア 2645~2659年

目立った記述無し

 

・5代目 フレーアウィネ 2659~2680年

目立った記述無し

 

・6代目 ゴールドヴィネ 2680~2699年

目立った記述無し

 

・7代目 デーオル 2699~2718年

彼の時代に褐色人がアイゼン川を渡って、マーク国内への襲撃を行うようになります。

第三紀2710年に褐色人は当時無人だったアイゼンガルドを占拠し、デーオルは彼らを追い出すことが出来ませんでした。

 

・8代目 グラム 2718~2741年

目立った記述無し

 

・9代目 ヘルム 2741~2759年

その剛力と不屈さで、歴代の王の中でも有名な人物で、槌手王として知られます。

ヘルム峡谷と角笛城の名は、彼から取られました。

彼の治世に、褐色人の血を引くと言われた西境の領主フレカは次第に高慢になり、第三紀2754年、フレカがエドラスの会議に突然現れ、自分の息子ウルフの嫁としてヘルムの娘を要求したため、ヘルムは彼と口論になります。

王宮内では私闘が禁じられていたため、ヘルムはフレカを強引に外へ連れ出し、彼を殴り殺しました。

ヘルムはフレカの近親者を王の敵だと宣言し、西境に兵力を差し向けて彼らを追放します。

 

その後2758年、東夷と海賊の侵略に乗じて、フレカの息子ウルフは褐色人を率いてマークを蹂躙します(大侵略)

ヘルムの息子、ハレスはウルフ率いる褐色人の侵略から黄金館を最後の一人になるまで守り、討ち死にしました。

ヘルムはスースブルグの砦とその背後の峡谷に立て籠もって抵抗しましたが、長い冬のためにロヒアリムもその敵も寒さと飢えで大きな損害を受けます。

そしてヘルムの息子ハマも自暴自棄となり、雪の中を出撃して行方不明になりました。

息子達を失った哀しみと、冬の飢えのために自身も自暴自棄になったヘルムは、痩せさらばえた身体に白装束を纏うと、大きな角笛を一吹きしては単身で砦から出撃し、敵の野営地に乗り込んでいって素手で多くの敵を殺します(槌手王の名はそれに由来します)

褐色人の噂では、ヘルムは食料が見つからなければ人間を食べたといわれ、このことは褐色人の国で長く語り伝えられました。

このため大角笛の音がこだまする度に敵は恐れて奥谷を下って逃げ去ったといいます。

 

ようやく冬の終わりが近づいたある日の夜、ヘルムは角笛を吹いて出撃したが戻らず、朝になって堤防の上に立ったまま死んでいる姿で発見されます。

しかしその後もヘルム峡谷では大角笛の音が時折こだまし、ヘルムの亡霊が現れてマークの敵を恐怖で殺すと言い伝えられました。

彼が葬られたエドラスの塚山には、一際多くのシンベルミネが咲き、あたかも雪をかぶっているように見えたといいます。

ヘルムとその息子達の死によって、マーク王家の第一家系は途絶えました。王位は彼の姉妹ヒルドの息子フレアラフが継承し、第二家系となります。

 

・10代目 フレアラフ 2759~2798年

2758年から続いた長い冬が終わると、フレアラフは馬鍬砦から少数の部隊を率いて出撃し、メドゥセルドを奇襲してウルフを討ち取り、エドラスを奪回します。

アイゼンガルドを占拠していた褐色人も冬による飢饉に苦しめられてフレアラフに降伏し、東夷は雪解けで発生したエント川の大洪水によって死ぬか撤退します。

ベレゴンドから送られたゴンドールの援軍にも助けられ、2759年の終わりまでにフレアラフはマークから褐色人を駆逐しました。

その時、既にヘルムの息子であるハレスとハマは死んでいたため、甥であるフレアラフがマークの王位を継ぎます(マーク王家の第二家系の始まり)。

2759年のフレアラフの戴冠式の時、サルマンが贈り物を携えて現われ、ロヒアリムも彼を味方として歓迎します。

同年にサルマンはゴンドールの執政ベレンによってアイゼンガルドを与えられ、そこに居を構えました。

大侵略と長い冬の飢饉によって疲弊していた当時のマークにとって、サルマンの存在は有益なものでした。

 

・11代目 ブリッタ 2798~2842年

物惜しみせず、困窮している者には助けの手を差し伸べたため、国民のロヒアリムからレーオヴァと呼ばれて愛されました。

彼の時代に、ドワーフとオークの戦争で霧ふり山脈から逃げて来たオーク達が白の山脈に住み着こうとマークへ侵入し、戦闘となりました。

 

・12代目 ワルダ 2842~2851年

馬鍬砦から馬で山道を通っていた時、オークの罠にかかって従者もろとも殺されました。

 

・13代目 フォルカ 2851~2864年

優れた狩猟家として知られていましたが、マークにオークがいる限り野の獣を狩らない誓いを立て、その誓い通り、国内からオークを全て駆逐しました。

その後フィリエン森へ雑木山の大猪いのししを狩りに行き、猪は仕留めたものの、その牙から受けた傷が原因で死にました。

 

・14代目 フォルクウィネ 2864~2903年

彼の治世にマークはヘルムの時代の大侵略と長い冬によって失われた、かつての国力を回復しました。彼は褐色人に占領されていた西境を征服し、取り戻します。

ゴンドールがハラドから攻撃された時、エオルの誓いに基づいて自ら軍を率い救援に向かおうとしますが配下に止められ、代わりに息子のフォルクレドとファストレドを送り出します。

その結果二人は戦死し、執政のトゥーリン二世から報償として多量の金(gold)を贈られました。

王位は三男のフェンゲルが継ぎました。

 

・15代目 フェンゲル 2903~2953年

彼は食物と黄金を貪り、子たちとも配下の軍団長たちとも仲が悪かったそうです。

後世では彼を賞讃をもって語る者は誰一人いないといいます。

 

・16代目 センゲル 2953~2980年

父フィンゲルとは折り合いが良くなく、成人するとゴンドールへ移住して当時の執政トゥアゴンに仕え、功名を勝ち得ます。

そして2943年には同地で17歳年下のモルウェンを妻に娶りました。

しかし2953年に父が死ぬと祖国に呼び戻され、意に反して王位を継ぐことを余儀なくされます。

センゲルは優秀な王となりましたが、彼の育ちのために王宮内でゴンドールの言葉が用いられたことを好ましく思わない者もいたそうです。

アラゴルン二世は、ゴンドールでエクセリオン二世に仕える前は、マークでセンゲルに仕えていました。

 

・17代目 セオデン 2980~3019年3月15日

母モルウェンの故国であるゴンドールで生まれ、2953年に父センゲルがローハンの王位を継承するまでその地に暮らします。

妹婿のエオムンドがオークに殺され、最愛の妹セオドウィンも病を得て亡くなると、その遺児であるエオメルとエオウィンを養子として引き取りエドラスで育てました。

しかし66歳の時より病を得て、以降ひどく健康が衰えていくようになります。

これはローハンの奪取を狙ったサルマンに買収されて裏切り者となった王の相談役蛇の舌グリマの術策によるものでした。

グリマが注ぎ込む毒の言葉によって自分が年老いて耄碌したのだと思い込んだセオデンは次第に政務が執れない状態になり、グリマが王の名の下に王国の実権を握るようになります。

グリマはアイゼンガルドの脅威を過小評価し、ローハンが行動を起こすことを妨げました。

そのためアイゼンの浅瀬の合戦で、セオデンの一人息子のセオドレドは討死してしまいます。

さらに甥のエオメルが東谷に侵入したウルク=ハイの一団を討伐するために自らの一存でエオレドを出動させると、グリマは反逆行為だとして彼を告発し、セオデンはエオメルを投獄してしまいます。

 

第三紀3019年の大いなる年、ガンダルフ、アラゴルン二世、レゴラス、ギムリの一行がエドラスにやってくると、セオデンは彼らを冷淡に迎え、グリマと共にガンダルフを「疫病神」と呼んで非難します。

しかしガンダルフはグリマの毒言からセオデンを解き放つことで、彼を癒やします。屈めていた背を伸ばし、心労の皺が取り去られたセオデンはかつての活発さを取り戻しました。

統治に復帰したセオデンは、ガンダルフの忠告を容れてグリマを殺さず追放し、また放免したエオメルを自らの右腕にして王位後継者に指名します。

そしてサルマンの脅威を除くべく、自ら軍を率いて西谷に出陣。

しかし道中ケオルからアイゼンの浅瀬が突破され、エルケンブランドが敗走したとの報せを受けたセオデンは、ヘルム峡谷の角笛城に籠城します。

アイゼンガルドの軍勢は膨大でしたが、セオデンは夜明けを合図に高らかに角笛を吹き鳴らさせると出撃し、敵をヘルムの堤防まで押し戻すことに成功します。

そこでガンダルフが呼び集めたエルケンブランドの軍勢と、谷を埋め尽くすフオルンの大群が加わり、三方から挟み撃ちにされたアイゼンガルドの軍勢は殲滅され、角笛城の合戦はローハンの勝利に終わりました。

 

勝利も束の間、ローハンにナズグールが飛来したことで、セオデンはエドラス凱旋を取り止めて国民が避難する馬鍬谷へ向かうことを決めます。

その途上で立ち寄った角笛城で、メリアドク・ブランディバックを自らの小姓に取り立て、小馬のスティッバを与えました。

馬鍬砦には既にガンダルフの忠告によってローハン全軍が集結していました。

さらにその夜、ミナス・ティリスから赤い矢を携えた使者ヒアゴンがやってきて、ゴンドールが危急の時にあり援軍を要請する烽火が上げられたことが知られます。

そのためセオデンは召集した1万を超す全軍から、国の防衛のために残しておかなければならない人員を除いた約6000名の騎兵を率いて直ちにミナス・ティリスへの長征を開始します。

ローハンの軍勢は、途中ドルーアダンの森でドルーエダインの酋長ガン=ブリ=ガンの協力を得て、敵の待ち伏せを回避して石車谷を通りミナス・ティリスへ達します。

ペレンノール野に入り、展開したローハンの騎士たちにセオデンは心を決めて全軍に攻撃の号令をかけると、曙光を告げる鶏の声と共に大角笛を吹き鳴らし、先陣を切って戦場に乗り込んでいきました。

その姿は、かつての力の戦いにおけるヴァラールの偉大な狩人オロメを彷彿とさせるものであったといいます。

ロヒアリムは戦いの歓びに歌を歌いながらペレンノール野の北半分近くを席巻。さらにハラドリムの主力の騎兵が接近すると、セオデンは多勢に無勢ながら敵陣を打ち破って敵の指揮官を討ち取り、さらに敵の旗印を旗手もろとも一刀両断にして勝利を収めます。

しかしこの勝利の瞬間に、到来した魔王が投げかける恐怖の影のためにロヒアリムは浮足立ち、セオデンは脇腹に黒い矢を受けて倒れた乗馬雪の鬣の下敷きとなって致死の重傷を負います。

とどめを刺さんと迫る魔王を倒したのは、命令に背いて密かに戦場まで付き従ってきたエオウィンとメリアドクでした。

今際のセオデンは、看取るメリアドクに別れを告げると、駆けつけたエオメルに王位を譲り、すぐそばにエオウィンが倒れていることを知らないまま彼女の心情を気遣い、亡くなりました。

 

・18代目 エオメル 第三紀3019年3月15日~第四紀63年秋

第三紀3002年に父エオムンドがオークに殺され、母セオドウィンもすぐ病を得て亡くなると、エオメルはエオウィンと共にセオデンに引き取られ、彼の養子としてエドラスで育てられます。

エオメルは父の役職を次いで東マークを統括する第三軍団の軍団長として、谷地のアルドブルグに本拠を持ちます。

彼より13歳年上の従兄セオドレドとは強い友情で結ばれており、エオメルは彼をセオデンに次いで尊敬していたといいます。

セオデンがサルマンの間者グリマの術策によって耄碌しても、セオドレドとエオメルの王に対する忠誠心はいささかも揺るがず、また互いの信頼関係も揺るぎませんでした。

そのためグリマは、可能な限りこの二人(特にエオメル)が王からの信頼を失うよう仕向けようとします。

 

第三紀3019年(大いなる年)2月26日に、オークの一団が東谷に侵入したとの報を受けたエオメルは、エドラスからの命令を無視して自らのエオレドを引き連れて討伐に乗り出し、かれらを追跡して29日の夜明け前にファンゴルンの森のきわで追い詰め、包囲して殲滅します。

翌日、捕虜にされたメリーとピピンを救出するためオークを追っていたアラゴルン二世、レゴラス、ギムリの一行に行き会います。

はじめは見知らぬよそ者に警戒心を示しますが、アラゴルンがエレンディルの世継であることを名乗り、誘拐された友人二人を助けるためにローハンの平原を踏破してきたことを聞かされると、後で必ずエドラスに立ち寄るよう約束させるのみでかれらを見逃し、さらに馬(ハスフェルとアロド)を貸し与えました。

エドラスに戻ったエオメルは、命令に反してオークを追跡するために東マークの軍勢を連れ出しエドラスの防備を疎かにしたこと、よそ者を捕らえず国内を通行するのを見逃したこと、さらに彼らに馬まで貸したこと、といった罪でグリマに告発されます。

さらに、グリマがエオウィンを我が物にしようと狙っていることを知っていたエオメルは、宮廷内で剣を抜きグリマを切り捨てようとしました。

そのため、グリマの言いなりになったセオデンの命によって投獄されます。

その後アラゴルンらとともにエドラスを訪れたガンダルフの手によってセオデンが癒され、グリマの呪縛から解放されると、エオメルも釈放されます。

エオメルはセオデンの信頼を取り戻し、軍事上の第一の相談役として王に付き添うこととなり、またセオデン亡き後の王位継承者に指名されました。

セオデンに付き従ってヘルム峡谷まで軍を進めたエオメルは、角笛城の防衛を事実上指揮し、自らの手勢を峡谷を塞ぐ奥の防壁に主に配置してアイゼンガルドの軍勢に備えます。

攻撃が開始されると、しばしばアラゴルンと共に奮戦し、城門に攻め寄せる敵部隊を押し戻して活躍しました。

奥の防壁の暗渠がオルサンクの火によって爆破され、峡谷内まで敵が流れ込んでくると、エオメルはギムリ、ギャムリングらと共に本陣から分断され、峡谷の燦光洞まで撤退します。

しかし夜明けとともにセオデンがヘルムの角笛を吹き鳴らして出撃すると、それに呼応して反撃。敵をヘルムの堤防まで押し返し、直後に到着したエルケンブランドら西谷の援軍とともにセオデン、アラゴルンらと再会し、ローハンは勝利を収めました。

 

その後馬鍬砦に集結したローハン軍は、そこから約6000騎が長征に加わり、赤い矢で援軍を要請してきたゴンドールに応えるためミナス・ティリスを目指します。

そこから曙光と共にペレンノール野へ突撃したローハン軍は戦いの歓びに高らかに歌いながら戦場を席巻し、敵の手に落ちていたペレンノールの半分を掃討します。

しかしその中で、セオデンは魔王の攻撃によって命を落とし、今際のセオデンの許に辿り着いたエオメルは、その場で彼からマークの王位を譲られました。

ところが、セオデンの周囲で倒れ伏している従者の亡骸を確認している途中、そこにエドラスに残してきたはずの妹エオウィンが横たわっていることに気付いてしまいます。

魔王に打撃を与えたために黒の息に冒され、一見すると死んだようになっている彼女の姿を見て衝撃と激怒に駆られたエオメルは、周囲の意見も聞かず馬に打ち跨って狂ったように戦場に取って返しました。

恐るべき怒りに駆られたロヒアリムの軍勢は敵軍の前線を潰滅させ、ハラドリムの軍勢を二分して通り過ぎ、騎兵を敗走させ歩兵を全滅させるなどすさまじい戦いぶりを示しましたが、ムマキルの恐怖に対しては馬は無力で打ちかかることができず、ムマキルの周囲に敵軍が再集結しつつありました。

さらにオスギリアスからは新手が送り込まれ、ハルロンドには海賊の艦隊が停泊しようとしていたのを見て望みを失ったエオメルは、むしろ覚悟を決めて明晰さを取り戻し、沸き起こる戦意のために悲壮な詩句を口ずさんで笑います。

しかしそこで停泊した海賊船に搭乗していたのは、ゴンドールの辺境の諸侯国の兵を引き連れたアラゴルン二世であり、エオメルとアラゴルンは再び戦場で再会します。

この援軍が決定打となって合戦の流れは変わり、モルドールとその同盟軍はほとんどが追い詰められて殲滅されました。

 

その後、最終諸侯会議で黒門への攻撃が決定されると、エオメルはロヒアリム歩兵500名と騎兵500騎を率いて西軍に参加することが決まりました。

エオメルはこの戦いに生き残り、ローハンの新たな王(エオル王家の第三家系)として凱旋します。

エオメルとローハンは即位したエレスサール王からあらためてカレナルゾンの地を永久に与えられ、その同盟の誓いを新たにします。

エオメルはエレスサール王の戴冠式に参列した後、戦後処理のためエオウィンやロヒアリムらと共に5月8日にローハンに帰郷。

その後、ミナス・ティリスのラス・ディネンに一時的に安置されていたセオデンの棺台を引き取るため、7月18日にミナス・ティリスを再訪。

7月22日にはセオデンの葬列と共にエオメルらとエレスサール王、さらに裂け谷やロスローリエンのエルフと共にエドラスへ向けて出発。

8月10日にエドラスでセオデンの葬儀が執り行われた。その日の追悼宴の最後に、エオメルはエオウィンとファラミアの婚約を発表しました。

エオメル王は指輪戦争終結後もエオルの誓いを果たすためにロヒアリムの軍勢を指揮し、エレスサール王の軍とともに、西方世界の敵たちと戦いました。

ローハンは待ち望まれた平和を謳歌できるようになり、人口も馬の数も増えました。

第三紀3021年にはイムラヒル大公の娘ロシーリエルと結婚し、後に息子エルフウィネが生まれます。

晩年の第四紀63年の春、エオメル王はもう一度ホルドヴィネに会いたい旨の伝言をバック郷に送り、すでに老齢だが矍鑠としていたメリアドク・ブランディバックをペレグリン・トゥックと共に呼び寄せます。

同年の秋にエオメル王は崩御し、それまで2人のホビットはエドラスにいたといいます。

エオメルの治世は長命王アルドールに次ぐ65年に及び、王位は息子のエルフウィネが継承しました。

 

・19代目 エルフウィネ 第四紀63年~不明

エオメルとロシーリエルの息子。母方の祖父、つまりイムラヒルに驚くほど似ていたそうです。

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